かしま【鹿島】
香取・鹿島(かとり・かしま)
鹿島
鹿島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:09 UTC 版)
鹿島には石油精製設備では鹿島石油のプラントが立地する。また、石油化学設備では三菱化学のプラントが立地する。 三菱化学コンビナート【プラントにナフサ他を提供する製油所】鹿島石油(株)
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鹿島
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「福島第一原子力発電所1号機の建設」の記事における「鹿島」の解説
上述のように1966年4月にはGEへの特命発注が確実視されたが、GE側は東京電力からの正式発注を見越し、1号機本館と事務本館の建設工事について清水建設、竹中工務店、鹿島建設、間組の4社に指名発注、4月21日に見積書の徴収を行うこととした。1966年12月に東京電力とGEが正式契約した際、『電気産業新聞』は「下馬評」として竹中工務店を挙げていた。その後、この4社の中で鹿島建設と間組の競争が後にクローズアップされ、鹿島が原子炉建屋他本館工事を受注した。『日刊建設工業新聞』は1966年12月には鹿島決定を報じ解説記事にて「一歩先輩格の敦賀原子力建屋が竹中工務店に決まっていることから見てまずは当然の落着ぶり。(中略)今後エバスコ社と日本業者のからみも関心のマトとなる」と評している。 当時会長だった鹿島守之助は自由民主党参議院議員として、様々な提言を時の建設大臣に提出するロビー活動を行った。1966年4月13日に出された「設計施工一本化に関する件」では、当時設計者と施行者が完全に分割発注されていた慣習に危機感を持ち、欧米の様々な契約形態を引き合いとしながらその一本化を求めていたが、ターンキーについは「大企業の持つ調査研究、技術、資本力等の能力を十二分に活用する」方式として戦後欧米各国の大手建設業者が自前の設計能力を備え、最新技術を導入する能力を備えているためであると説明し、設計施工分離方式を時代遅れと批判している。ただし、この考えの背景には国内中小業者の施工能力を低く見ている視点もあり、分割発注批判については同時期に提出した別の意見書にも盛り込んだ結果、全国中小建設業協会より批判を受けた。同協会は「JVは工事の大型化を図り大手に工事を発注する方便に過ぎない」「日本のような小さい国の業者が世界一の工事実績を持つということは(略)中小業者を踏み台にしてのし上がったものだ。(略)国内受注がほとんど」と米国との国情の相違も挙げ、分割発注はむしろ工事を迅速化するとし伊勢湾台風復旧の例を挙げている。 当機の受注活動において当初鹿島はJV方式を提案したが、同社社史によると「業者間の足並みが乱れ、むしろはげしい競争がおこり、それをGEが巧みに利用するなどスッキリしない動きが多かった」とされ、契約までのイザコザによる遅れも発生したという。また、鹿島内ではGEが元請けになった工事に応札するべきか激論が交わされ、一時的に撤退論も優勢となった。GEは日本的な談合文化とは無縁で、応札する国内ゼネコン各社は本気で見積もり価格の叩き合いを迫られていたからである。受注当時の『日刊工業新聞』(1967年4月22日)によると、鹿島は当初22億円の価格を提示したものの、GETESCOはこの提案を一蹴、鹿島はこれを受け「これ以上、下げるのは不可能」として18億円を再提示したが、GETESCOはこの案も一蹴し、14億円で落札するように迫ったという。しかしながら、受注にいたった要因としては下記が挙げられている。 1966年の契約後、日立、東芝を機器の下請として使う決定と同時に鹿島が建設の下請けに就くことも早々に内定していたとされること 1967年1月より一号機の準備工事は着手されており、鹿島はこの際Letter of Comittment(事前了解)を承認していたこと 競合相手の間組が14億円で落札する姿勢を見せ始めたこと 鹿島守之助から「赤字でもやれ」と鶴の一声が下ったこと 日立、東芝、三井物産、および東京電力の強い希望があったこと。 1号本館の受注はGEと東京電力の契約の後、1967年2月初旬に報じられた。落札した鹿島は受注のため石川六郎副社長(当時)を訪米する念の入れようで、その背景には原子力発電所の場合、関連設備を含めると巨大な建設市場となるという共通認識があったという(石川は「将来を見越して」とコメントしている)。入札時より認識されていた技術的新規性としては、下記のような点が挙げられ、従来の建設技術では対応出来ず、新技術の開発を促進するものと見られていた。 建物のコンクリート部分が大幅に厚くなる 内部構造も特殊な形式をとる 鹿島が受注に成功した要因として池亀亮は『日経産業新聞』に対して耐震構造の研究で他社より重視したことを挙げている。鹿島は本機受注の10年前に当たる1956年には社内に原子力室を設けていた。日本の原子力発電草創期には地震動の衝撃が炉心に及ばないようにエネルギーを逃がす軟構造か、反対に剛構造として敷地に固定するかで見解が分かれていたが、早期に岩盤に直接固定する方針(技術的詳細は後述)を打ち出し先行したと言う。 なお、鹿島はこれに先立つJRR-1,JPDRの建屋工事も赤字受注しており、技術を蓄積するための先行投資として割り切った。そこには上述のような「巨大産業に発展する」という読みがあったが、短期的にも読みは当たり、2号機では東京電力の国産化方針から発注者が東京電力からの直接受注に切り替わり、この福島の経験が原子炉ビジネスでの転機となった。結果、1989年までに日本の電力会社が発注したBWR19基の内16基を鹿島が占めた。取締役の名井透は「過去の投資に見合ったリターンはあった」「原発建屋の技術は一般の建屋にも応用してきたので数字に表れないメリットも大きい」と述べている。ただし、『原子力通信』によると、鹿島の取った安値入札を非難する向きもあった。 鹿島守之助は政治家、外交史研究者としての側面を持つ人物であったが、日本の潜在核武装能力の獲得という目標を持っており、東京電力とGEが当機の正式契約を結んだ2日後の12月10日、『電気協会雑誌』にて中華人民共和国の核開発への対抗、西独の核戦力参加要求を材料に「非核保有国日本も(中略)原子力の平和利用によって、核兵器の製造能力をも十分具備している。そして将来中共のそうした発言権をはねかえすためには、今後もこのような能力を保持するだけの国力、すなわち技術力、科学力、経済力を不断に養っておかねばならない。」と述べている。 別記のように敷地造成後、1号機建屋建設の鍬入れ式が1967年4月1日に執り行われ、これを以って工事着手とされているが、GEと鹿島の契約調印は1967年6月19日であった。 なお、鹿島は当時米建設大手6位のモリソン・クヌードセン(Morrison Knudsen,MK)社と密接な関係にあり、本発電所建設においてMK社も関与していた。更に、鹿島は1号機の建設においてGE、EBASCOより現地指導を受けた他、米国EBASCO社に技術者を8名ほど派遣して原子力発電所の設計・施工についての技術修得を行い、1969年に入る頃には自主的に建屋建設を受注出来るレベルまで自信をつけてきていた。1968年2月に同社武藤研究室がEBASCOの視察を行った時点では出向社員は4名であった。武藤清は出張報告にて、当時自社の計算機容量が32Kに更新されたこともあり「電子計算機施設、計算機容量(24K)および耐震関係の保有プログラム等は当社の方が、はるかに優れていることが分かりました。耐震解析にさいしては、その現象解析を実際の建物に対して忠実に行なうということをわれわれは常々考慮しております。その結果、原子炉建物等の振動系は非常に複雑なモデルとなりますが、EBASCO社では現在のところこの種の解析は不可能と考えられます。日本で建設される原子炉建物耐震解析のEBASCO社から武藤研究室への依頼の問題については特に触れずに、(中略)訪問を終えました。」と述べている。
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鹿島(かしま)
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寺田が異動になった時に高野の後任の担当になった講談社の編集者。しかし、4巻に2回登場してから長らく出番が無く、いつの間にか高野の担当のポジションは上記の武田に奪われ、次に登場したのは11巻になってからだった。しかも、久しぶりの登場だというのに殺人事件の被害者となってしまう。別に顔立ちは丹精ではなくというより、むしろ不細工に描かれているが、若い同僚と年上の寮母とで二股をかけていた。その為に、別れ話をきり出された方の女性から殺されてしまったはずなのだが、15巻収録分の話で生きて再登場してきた。今では3人で仲良くやっており、講談社の種馬と呼ばれている。
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鹿島
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「倉敷海底トンネル事故」の記事における「鹿島」の解説
鹿島は事故後、設計・施工中の全てのシールドトンネルを調査し、構造設計が設計基準を満たしていることを確認している。また停電時のバックアップ体制を確立し、避難誘導器具の充実を図った。安全環境部の人員と権限も強化している。 鹿島・大林JVが施工した国道357号東京港トンネルの西行きトンネル(羽田空港方面)は、事故と同様にシールドトンネル工法で海底を掘進することから東京港トンネル施工技術検討委員会の指導を受け、「シールドマシンのテールシールブラシを3段から4段に増やす」「3箇所の監視カメラに24時間の録画機能付加」「セグメント組立時の停電対策として、非常用発電機を設置」という対策を取った。
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鹿島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 15:07 UTC 版)
「倉敷海底トンネル事故」の記事における「鹿島」の解説
鹿島は事故に関連する費用として約30億円を特別計上したことなどを合わせ、2012年3月期の通期の業績予想を、連結ベースの当期純利益が1年前に比べて86%減の35億円、単体ベースの当期純利益を12月の予想から91億円減額し71億円の赤字になると下方修正し、4月18日に発表した。
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「鹿島」の例文・使い方・用例・文例
- 私は今日鹿島市に行きました。
- 鹿島丸は来たる十日横浜着港のはず
- 鹿島丸は欧州通いの定期船だ
- 難船した人々が鹿島丸に助け上げられた
- 鹿島市という市
- 鹿島鳥居という形式の鳥居
- 鹿島明神の御託宣と称するものを触れ歩く物乞いの人
- 常陸帯という,鹿島神宮の祭礼で行われた結婚占い
- 鹿島アントラーズの元選手でテクニカルディレクターのジーコさんが,サッカー日本代表の新監督になることに同意した。
- 1991年に住友金属サッカー団,後の鹿島アントラーズに入団し,1993年にはアントラーズのJリーグ,第1ステージ優勝に貢献した。
- 最終種目である鉄棒では,首位のルーマニアチームが崩れる一方,米田選手と鹿島選手がうまく演技した。
- 第23回鹿(か)島(しま)ガタリンピックが5月27日,佐賀県鹿島市にある七(なな)浦(うら)海(かい)浜(ひん)スポーツ公園で行われた。
- ここ3年連覇中の鹿島アントラーズは浦和レッズとの今年の初戦に2-0で勝利した。
- 鹿島は先日,千葉大学や医薬基盤研究所と共同して,国内で初めて甘(カン)草(ゾウ)を水耕栽培することに成功した。
- 鹿島は1~2年で甘草の栽培システムを実用化する計画だ。
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