支藩 (しはん)
支藩
支藩(郡山新田藩)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/25 14:20 UTC 版)
郡山新田藩(こおりやましんでんはん)は、本多家時代(1639年 - 1679年)の郡山藩の支藩である。本多政勝の長男の本多勝行は、政勝の姫路藩主時代にその支藩姫路新田藩の藩主であったが、寛永16年(1639年)に政勝の郡山への移封にともない、新たに郡山において旧領と同じ4万石を分知された。これが郡山新田藩の起こりである。勝行の早世後、その所領は義兄の政長が3万石、政信が1万石をそれぞれ分与された。 寛文11年(1671年)に本藩の政勝が死去すると、政長が本藩の家督を継いで郡山藩主となるが、幕府の裁定により、郡山藩の所領15万石のうち9万石(新田領と合わせて12万石)を政長が、残り6万石を勝行の弟の政利が相続した。延宝7年(1679年)、政利は播磨国明石藩へ移封され、廃藩となった。 政信が分与された1万石の所領も、延宝7年(1679年)に、子の政貞(忠英)が播磨国山崎藩へ移封され、廃藩となった。
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支藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 04:32 UTC 版)
阿部家時代に以下の支藩があった。 大多喜藩(上総国夷隅郡)阿部正次は元は大多喜藩主で、移封後も夷隅郡の旧領を保持していたが、岩槻藩主時代の寛永15年(1638年)に孫の阿部正令(正能)に1万石を分与し、大多喜に立藩させた。正令は寛文11年(1671年)に阿部忠秋の跡を継いで武蔵国忍藩主となり、その際にこの1万石も引き続き知行した。同年、阿部正春が阿部正邦に藩主を譲った後、後述する自身の旧領1万6千石の知行で新たに大多喜藩主となった。元禄15年(1702年)、正春は三河国刈谷藩へ移封した。 大多喜新田藩(上総国夷隅郡)阿部正春(元は三浦姓を名乗り三浦正春)は、慶安4年(1651年)に兄の阿部定高が岩槻藩主となった際、1万6千石を分与された。名目上は居所を大多喜に置いたが、正令の大多喜藩と併存しており、便宜上「大多喜新田藩」と呼ばれる。万治2年(1659年)、正春が岩槻藩主を継いだ際に廃藩となり、のち正春が正令に代わって大多喜藩主となった際に、旧大多喜新田藩領が新たな大多喜藩領になった。
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支藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 06:01 UTC 版)
各家とも福島藩主時代には支藩の創設はなし。本多家には、大和郡山藩主時代に分封した播磨山崎藩、陸奥岩瀬藩が存在した。このうち、福島県須賀川市に陣屋を置いた岩瀬藩主の本多出雲守政利は、天和2年(1682年)まで播磨明石藩主であったが不行跡により岩瀬に減転封された。その後、行跡を改めず乱行を続けたとして、元禄6年(1693年)に改易となった。
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支藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/14 20:04 UTC 版)
朽木稙綱が徳川家光の寵愛を受けて、寛永13年8月13日(1636年9月12日)に加増を受けて1万石の大名となる。その後、正保4年12月24日に下野国鹿沼などを与えられて鹿沼城を居城と定めた事で鹿沼藩が成立する。
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支藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:18 UTC 版)
江戸時代中3藩が存在した。いずれの支藩も岡山新田藩(おかやましんでんはん)と称した。そのため現在ではそれぞれ「児島藩」「鴨方藩」「生坂藩」と呼ばれることが多い。 児島藩(短期間) 鴨方藩 生坂藩
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