支道化と間道への降格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/07 06:16 UTC 版)
「東山道武蔵路」の記事における「支道化と間道への降格」の解説
当時は東山道の一部として管理されていた武蔵路ではあったが、朝廷の官吏使節(東山道使)は上野国邑楽郡から東山道武蔵路を経て武蔵国府(東京都府中市)へ至り公務を終えて次に下野国に移動する際は再びこの道を引き返して下野国府(栃木県栃木市)へ向かうという非効率な旅程を強いられていた。これに対処するために、新田駅と足利駅とを直接結ぶ道を東山道官道とし、合わせて武蔵国を東山道から東海道へ移管する太政官奏上がなされ、光仁天皇がこれを許可した。この旨は、『続日本紀』宝亀2年10月27日(771年12月7日)条で以下のように記録されている。 太政官奏。武藏國雖属山道。兼承海道。公使繁多。祗供難堪。其東山驛路。從上野國新田驛。達下野國足利驛。此便道也。而枉從上野國邑樂郡。經五ケ驛。到武藏國。事畢去日。又取同道。向下野國。今東海道者。從相模國夷參驛。達下総國。其間四驛。往還便近。而去此就彼損害極多。臣等商量。改東山道。属東海道。公私得所。人馬有息。奏可。 つまり、「太政官は以下のように奏上した。武蔵国は今は東山道に属するが東海道も兼ねるため公使がたくさん行き交い、供応が非常に難しい状況にあります。東山駅路は上野国新田駅(群馬県太田市)から下野国足利駅(栃木県足利市)に達しており、この道は非常に便利です。しかしながら、公使はこの便利な道を使えず、上野国邑楽郡から5駅を経て武蔵国に至り、退去する際には同じ道を戻って下野国に向かうという旅程を取っています。一方、今の東海道は相模国夷参駅(神奈川県座間市)から4駅を経て下総国へ至っており、この道はたいへん便利なものです。にもかかわらず、この便利な道を捨ててあの不便な道を取るのは損害が極めて多くなります。私どもではかった結果、東山道を改めて東海道に属させれば、公私得する所となり、人馬も安息できます。(光仁天皇は)奏上を許可した」となっている。 これによって武蔵国は東山道から東海道へ移管となり、東海道も相模国から海路で上総国に向かうルートから武蔵国の沿岸を通るルートに変更されて国府への支道もつくことになった。同時に東山道武蔵路は官道から外れ、間道に降格されることになったのであった。
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