安息とは? わかりやすく解説

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あん‐そく【安息】

読み方:あんそく

[名](スル)

何の煩いもなく、くつろいで休むこと。

「この広き国土一隅に―することを許さないのだ」〈木下尚江良人の自白

安息香(あんそくこう)」の略。


あんそく【安息】

読み方:あんそく

パルティア王国中国で、王朝名アルサケス音訳しての称。


パルティア

(安息 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/26 05:58 UTC 版)

パルティア: Parthia、紀元前247年 - 紀元後224年)は、古代イランの王朝。王朝の名前からアルサケス朝アルシャク朝)とも呼ばれ、日本語ではしばしばアルサケス朝パルティアという名前でも表記される。古代中国では安息と呼称された。前3世紀半ばに中央アジアの遊牧民の族長アルサケス1世(アルシャク1世)によって建国され、ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)の時代以降、現在のイラクトルコ東部、イラントルクメニスタンアフガニスタン西部、パキスタン西部にあたる、西アジアの広い範囲を支配下に置いた。前1世紀以降、地中海世界で勢力を拡大するローマと衝突し、特にアルメニアシリアメソポタミアバビロニアの支配を巡って争った。末期には王位継承を巡る内乱の中で自立したペルシスの支配者アルダシール1世(在位:226年-240年)によって滅ぼされ、新たに勃興したサーサーン朝に取って代わられた。


注釈

  1. ^ IRAN vi. IRANIAN LANGUAGES AND SCRIPTS (2) Doc – Encyclopaedia Iranica” (英語). www.iranicaonline.org. Encyclopedia Iranica. 2017年2月8日閲覧。 “パルティア語。それはカスピ海の東の地域の現地語および、パルティア国家(アルサケス朝を参照)の公用語であり、石碑と金属の銘文(コインと印象を含む)と、パルティアの首都ニサで発見されたワインのツボの陶片ラベル、そして同様にマニ教の文書から知られている。”
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  3. ^ 概ね、ホラーサーン西部にあたるBickerman 1983, p. 6。
  4. ^ ディオドトス1世のセレウコス朝からの独立の正確な時期は明らかでない。ユスティヌスは「バクトリアの1,000の都市の総督テオドトス(ディオドトス1世)がセレウコス朝から離脱し、自らを王と呼ぶことを命じたと記すが[8]、ディオドトス1世が発行したコインからは確実に彼が王号を使用していたことを証明することはできない[7]。このため、ディオドトス1世は実際には王を名乗らなかったという予測する学者も存在する。前田耕作はディオドトス1世が一挙に王として独立したのではなく、地位を曖昧にしたまま徐々に事を推し進めたと推測している[7]
  5. ^ A.D.H.ビヴァール英語版は、この年が、サトラップアンドラゴラスの反乱によってセレウコス朝がパルティアの支配を失った年であると結論付けている。従って、アルサケス1世はセレウコス朝によるパルティアの統治が途絶えた瞬間まで「彼の紀年を遡らせた」のだという[10]。しかし、ヴェスタ・サルコーシュ・カーティス(Vesta Sarkhosh Curtis)は、これは単純にアルサケス1世がパルニ氏族の族長に就任した年であると主張している[11]。ホーマ・カトウジアン(Homa Katouzian)[12]とジーン・ラルフ・ガースウェイト(Gene Ralph Garthwaite)[13]は、この年はアルサケス1世がパルティアを征服した年であると主張する。だが、カーティス[11]とマリア・ブロシウス(Maria Brosius)[14]はアンドラゴラスの政権は前238年まで滅ぼされて英語版いないと述べている。足利惇氏はカトウジアンと同じく前247年はアルサケス1世がパルティアを征服した年であるとしている。ただし、アルサケス起源の第1年が前247年であることについては、重要な事件を記念したものであろうが、それが何なのかはわからないと率直に述べている[9]。また、山本由美子はアルサケス朝の成立を前238年頃のことであるとしている[2]
  6. ^ アルサケス2世は史料によってはアルタバノス(アルタバヌス)という名前で記録されており、デベボイスはアルタバヌスという名前で言及している。
  7. ^ ビヴァール[15]とカトウジアン[12]は、アルサケス1世の後継者は兄弟であるティリダテス1世であり、ティリダテス1世の地位は前211年にその息子、アルサケス2世に引き継がれたとする。だが、カーティス[16]とブロシウス[17]はアルサケス2世がアルサケス1世の直接の後継者であるとしており、カーティスは前211年に、ブロシウスは前217年にアルサケス2世が王位を継いだとしている。
  8. ^ 当時インドにはギリシア人、サカ人、パルティア人などがインダス川を越えて侵入し、各地で王国を築いていた。アゼス王は、実在が確実なパルティア人の王であるゴンドファルネスに先行する王であるが、その詳細は不明である。彼をサカ人の王とする学者もあり、またアゼスという名前を持つ王が一人だけなのか、あるいは1世と2世の二人いるのかについても論者によって見解が異なる。インド史も研究した仏教学者・哲学者の中村元は、アゼスを一人とし、「多数説に従って」パルティア人であるらしい、とする[56]インドの研究者グプタは、アゼスを1世と2世に分けるが、その出自については特に言及していない[55]
  9. ^ このことについてのローマ人の記録は二つの矛盾したものが伝えられている。カッシウス・ディオは、ルキウス・アフラニウスがパルティア軍と衝突することなく再占領したと書き、一方でプルタルコスはアフリカヌスが軍事力によって彼を追い払ったとする(Bivar 1983, p. 47)。
  10. ^ ケネディは恒久的な占領こそパルティア人の最終的な目標であり、ローマ領シリアの複数の都市と守備隊がパルティアに屈服した後は特にそうであったと主張している(Kennedy 1996, p. 80)。デベボイスやシェルドンはパルティアの主目的は略奪であり、征服を意図したものではなかったとしている。
  11. ^ イベリア王フラスマネス1世が息子のラダミストゥス(在位:51年-55年)をアルメニアに侵攻させ、ローマの属王であったミトラダテスを退位させた。
  12. ^ インド史、イラン史研究者の足利惇氏は、これらの王について発行した貨幣の年代が交叉していることから、むしろ諸州の統治者であったと推測している[125]
  13. ^ シェルドンはトラヤヌスのパルティアに対する攻撃の理由は、領土的野心と栄誉、そして半世紀にわたり続いてきた、ローマ皇帝によるアルメニア王戴冠の権利をパルティアが無視したことによって傷つけられたトラヤヌスの名誉心であったとする。そして以前よりパルティア侵攻を決意しており、オスロエス1世による介入は都合の良い切っ掛けに過ぎなかったとしている[126]
  14. ^ オスロエス1世の兄弟ミトラダテス4世の息子。
  15. ^ デベボイスは、192年にもヴォロガセス4世がコインを発行していることから、ヴォロガセス5世の即位が反乱によるものであるとしている[145]。一方、シェルドンは191年にヴォロガセス4世は死亡したとし、ヴォロガセス5世の即位の経緯については特に触れない[150]。いずれにせよ、史料の不足のためヴォロガセス5世の即位の経緯についての詳細は不明である。
  16. ^ パルティア人はパン、狩猟で得た肉、そしてバビロニアで栽培された野菜などを主に食した。他にドライフルーツ、ナツメヤシなどを食べたともいう。パルティアのパンはローマにも輸入され、パニス・アクワティクス(水気の多いパン)またはパニス・パルティクス(パルティアのパン)と言う名前で広く知られていた。大プリニウスはパルティア人は大酒飲みであるため口臭がきつく不快であると記録しており、これを打ち消すためにパルティア貴族の間ではシトロンの種を齧る習慣があったという[171]
  17. ^ 日本語ではアシュカーニー朝とも表記される[178]
  18. ^ イスラーム期西アジアの研究者大塚修の研究によれば、初期イスラーム時代の歴史家は古代ペルシア史を、ペルシア自体の系譜に基づく伝承よりも、むしろアラブの伝承学者に依拠して記述していた。上記したような四王朝の分類も初期イスラームの頃にはなされておらず、タバリーマスウーディーらに代表される歴史家たちの貢献によって整理されて行く中で次第に登場していったものである。そして10世紀以降にイラン古代の文献のアラビア語訳が大々的に利用されるようになると、古代ペルシア史は更に再編成され、アシュカーン朝を含む四王朝による古代ペルシア史認識が成立した[181]
  19. ^ Krnyは古代ペルシア語のKāranaya-(軍隊指導者)に由来する中世ペルシア語を表記したものであり、アウトクラトールはこの語のギリシア語訳として採用されたものであると考えられる。[183]
  20. ^ このアルタクセルクセスとは一般にアルタクセルクセス2世(在位:前404年-358年)であると考えられているが、これは彼の即位前の名前がアルサケスであったというクテシアスの報告から来ており、強固な根拠のあるものではない[188]
  21. ^ 歴史学者マレキ・ヤン・オルブリヒト(Marek Jan Olbrycht)はシェイガンの主張に対する反論として、シェイガンによるバビロニアの史料の取り扱いに問題があることを指摘するとともに、アルサケス1世が採用していた「Krny」という称号はアルサケス朝以外のペルシスの支配者によっても用いられた、アケメネス朝の伝統に対する言及を示す称号であったとしている[191]
  22. ^ ただし、研究者によっては三方が壁に囲まれた開放型広間をイーワーンと見なす場合があり、必ずしもヴォールト天井を前提としない場合がある。これは古代建築の上部構造が残存している例が稀であるため、天井構造が判明していなくても平面プランから類推してイーワーンであるとみなす傾向による[268]
  23. ^ アッシュールの宮殿のイーワーンは上部構造が判明しておらず、複数の学者がこの宮殿の「四イーワーン」と見られる部位の天井を陸屋根ないしなんらかの木造の梁構造によるものであったと推定しており、ヴォールト天井の存在をイーワーンの必須要素と見なした場合には、平面プランとして後世の「四イーワーン形式」の原型であったとしても、アッシュールの宮殿の中庭向き開口部をイーワーンであると断言することが困難である[274]

出典

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安息

出典:『Wiktionary』 (2021/08/21 12:43 UTC 版)

名詞

あんそく

  1. 心身することなく静か休むこと。

発音(?)

あ↗んそく

派生語

動詞

活用

サ行変格活用
安息-する

固有名詞

あんそく

  1. 歴史パルティア

派生語


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