ディオドトス1世とは? わかりやすく解説

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ディオドトス1世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/18 17:53 UTC 版)

ディオドトス1世
Διόδοτος Α'
バクトリア
バクトリア王ディオドトスの金貨。紀元前250年頃。
在位 紀元前239/8年 - 紀元前234年

死去 紀元前234年
子女 ディオドトス2世
王朝 ディオドトス朝
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ディオドトス1世ソテルギリシャ語:Διόδοτος Α' ὁ Σωτήρ)は、初代グレコ・バクトリア王国国王。初めはセレウコス朝総督サトラップ)であったが、のちに叛いてグレコ・バクトリア王国の創始者となった。彼の事績はローマ歴史家ポンペイウス・トログス紀元前1世紀頃)が記した『ピリッポス史』をユニアヌス・ユスティヌス3世紀頃)が抄録したもの、すなわち『地中海世界史』(日本語題)によって知ることができる。この中でのディオドトスはテオドトス(Theodotus)と表記されている。

生涯

独立と繁栄

初め、ディオドトスはセレウコス朝のアンティオコス2世(在位:紀元前261年 - 紀元前246年)のもと、バクトリアソグディアナのサトラップ(総督)を任されていた。しかしアンティオコス2世が死去すると、その2人の息子の間で王位継承争いが起き、各地でセレウコス朝からの離反が始まった。

セレウコスとアンティオコスの兄弟が王権を奪い合って離反者を放っておいたため、「千の都市」(バクトリア)の総督であったテオドトスもこれに乗じて離反し、領民に対して自分を王と呼ぶように命じた。これによって全オリエントの諸民族がマケドニアから離反することとなった。 — ポンペイウス・トログス『ピリッポス史』

また、古代ローマストラボンはディオドトスの独立後とその後の繁栄の様子を次のように記している。

バクトリアを離反させたギリシャ人はその肥沃な国土をもって大いに勢力を伸ばし、アリアネ[1]地方とインド族を支配するまでとなった、ということはアルテミタのアポロドロス (Apollodorus of Artemita)[2]が述べているところで、征服した部族の数はアレクサンドロスの時を越えた。 — ストラボン『地理誌』

アルサケスとの抗争

遊牧の民ダーハ族の首長であったアルシャク(ギリシア語ではアルサケス)はパルティアへ侵入すると、そこで王と称していた前パルティア総督アンドラゴラスを滅ぼしてパルティア王国の創始者となった(アルサケス1世)。パルティアを乗っ取ったアルサケス1世はその後まもなくヒュルカニア王国も占領し、セレウコス朝、グレコ・バクトラ王国と対峙した。

しかし、間もなくディオドトス1世が亡くなったため、アルサケス1世はその息子のディオドトス2世と同盟および講和を結んだ。

脚注

  1. ^ アリアナ。アケメネス朝の属領。現在のアフガニスタンイラン東部、パキスタン西部を含む。
  2. ^ 紀元前1世紀頃のギリシャ人作家。パルティアの歴史書を書いた。

参考資料

先代
グレコ・バクトリア王国の国王
初代:前239/8年 - 前234年
次代
ディオドトス2世



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