起源と建国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:41 UTC 版)
初代王とされるアルサケス1世は、アルサケス朝を創設する前は、古代中央アジアのイラン系部族で、ダハエ氏族連合に属する遊牧民パルニ氏族の族長であった。イラン北東部に位置するパルティア地方は、かつてはアケメネス朝の、その後セレウコス朝の支配下にあった。前3世紀半ば頃、東方におけるセレウコス朝の支配は弱体化しつつあり、前250年頃にはバクトリアのサトラップ(総督)であったディオドトス1世がセレウコス朝の支配から独立した。続いて、パルティア地方ではやはりサトラップであったアンドラゴラスが、前240年代初頭にセレウコス朝から離脱した。 アルサケス1世と、その弟のティリダテス1世(ティルダート1世)は、このアンドラゴラスを破ってパルティア地方を支配下に置いた。これがパルティア王国(アルサケス朝)の成立である。しかし、この出来事が正確にいつ頃の事であるのかはわかっていない。アルサケス朝の宮廷はアルサケス起源の初年を前247年に設定したが、これがアンドラゴラスを打倒した年であるかどうかはわからない。アルサケス1世は、未だ位置不明のアサーク(英語版)というパルティアの都市で即位式を行った。 アルサケス1世とティリダテス1世の関係、アルサケス1世の死、その後継者が誰なのかという問題についてもはっきりとはわかっておらず、後継者は弟であるティリダテス1世である可能性と、ティリダテス1世の息子アルサケス2世(アルシャク2世、アルタバノスとも)である可能性がある。アルサケス朝の王たちは全て、初代王の名前アルサケス(アルシャク)を受け継いだ。このため、「英雄」という意味を持つこの名前は個人名ではなく、王を意味する普通名詞であったとする考え方もある。このことから、アルサケス1世と当初より行動を共にし、その弟であるとされるティリダテス1世は、実際にはアルサケス1世と同一人物であるとする説もあった。現在では、後のパルティア王プリアパティオスが、アルサケス1世の甥の子孫であると示すオストラコンが発見されていることから、やはりこの二人は別個の人物であるという見解が一般的である。 セレウコス朝に西側からエジプト王プトレマイオス3世(在位:前246年-前222年)が侵入し、第三次シリア戦争(前246年-前241年)が勃発したことで、アルサケス1世とティリダテス1世に有利な環境が生まれ、彼らはしばらくの間パルティアとヒュルカニアで地歩を固めることができた。この戦争は、バクトリアにおいてもディオドトス1世が政権を安定させ、グレコ・バクトリア王国を形成することを可能とした。パルティアはディオドトス1世の後継者、ディオドトス2世との間に対セレウコス朝の同盟を結んだが、アルサケス1世(またはティリダテス1世)はセレウコス2世(在位:前246年-前225年)の軍勢によって一時的にパルティアから駆逐された。そして遊牧民アパシアカエ(英語版)の中で亡命生活をしばらく送った後、反撃に転じてパルティアを再占領した。セレウコス2世の後継者アンティオコス3世(大王、在位:前222年-前187年)は、軍をメディアで発生していたモロンの反乱の鎮圧にあてていたため、即座に反撃に出ることはできなかった。 情勢が安定すると、アンティオコス3世はパルティアとバクトリアを再び支配下に置くべく、前210年から前209年にかけて大規模な遠征を開始した。彼は目的を達成できなかったが、新たにパルティア王となっていたアルサケス2世は和平交渉でアンティオコス3世を上位者と認めた。そして代償として王(希:Basileus、バシレウス)の称号が付与された。 セレウコス朝は前190年のマグネシアの戦いで共和制ローマに敗れ、その脅威によってそれ以上パルティアでの出来事に介入することはできなくなっていた。パルティアではプリアパティオス(在位:前191年-前176年頃)がアルサケス2世の跡を継いだが、史料からは彼が「アルサケス1世の甥の子孫」であることと、アルサケス2世の後継者であったこと以外何もわからない。続いてプラアテス1世(フラハート1世、在位:前176年-前171年頃)がパルティア王位に昇った。プラアテス1世はセレウコス朝の干渉を受けることなくパルティアを統治した。
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