起源と平安時代の大饗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 18:36 UTC 版)
日本における宴会は酒礼・饗膳・酒宴の三部から構成され、中国の唐礼や朝鮮半島からの影響を受け酒礼に三献を伴う儀式が成立したと考えられている。酒礼は一同に酒が振る舞われる儀礼で、今日の乾杯や「駆付け三杯」にあたる。酒礼の後には飯汁を中心とした饗膳(膳、本膳)に入り、茶や菓子も含まれる。酒礼と饗膳は座を変えて行うことが多く、平安時代の饗宴においては酒礼・饗膳を「宴座」、宴会の酒宴は「穏座」と呼称して区別していた。 平安期には祭礼や節会などにおいて大饗(だいきょう)と呼ばれる貴族の儀礼食が存在した。平安貴族が大臣に任官した際には「大臣大饗」が開かれ、正月には「正月大饗」が開かれた。平安期の酒宴では肴と吸物が饗膳の菜・汁とは明確に区別されておらず、また酒肴として一献ごとに芸能が献じられる点を特徴とする。 平安後期の藤原頼長の日記『台記』保延2年(1136年)12月9日に記される大臣大饗の記事に拠れば、後代の式三献における「初献」の言葉は見られないが、主人から始まり一同が盃を取り、初献に相当する「一献」が行われている。二献では主人の頼長が酒を飲んでいない点を特徴とし、これは大江匡房『江家次第』においても同様の記述が記され、当時の作法であったと考えられている。三献では頼長は酒を飲んでいるが、『台記』に拠れば三献において主人が酒を飲むかの作法をめぐり議論が存在していたという。 後代の式三献においては、三献ののち座を改め饗膳に入るが、平安期に大饗では三献と饗膳の間に明確な区別は見られない。ただし、三献までは盃に様器を用いているのに対し、三献以下は土器を用いており、意識的な区別が存在していたと考えられている。『台記』に記される大臣大饗では六献まで記され、酒肴は初献前に客前に二折敷の肴物が並べられている。二献より前に主人の前にも同じ肴物が並べられ、三献では盃の後に飯汁が並べられ饗膳に入ったという。 大饗では主人や客は兀子(ごっし)と呼ばれる椅子に着座し、客の前には机が置かれた。古来から日本における日常食は一人分の料理を各自に配膳する銘々膳(個人膳)の様式が一般的であったが、儀礼食である大饗の饗膳料理は、台盤と呼ばれる大型の卓上に大量の菜類が並べられ、複数の客がこれを囲む共同膳の形式が取られた。実際に客が口にする料理は一品ずつ配膳され、すでに後の本膳料理と同様に前の料理を片付けて次の料理に移る時系列的な食事が成立していたと考えられている。また、後の本膳料理と同様に料理は「高盛」で供され、台盤の上に馬頭盤(ばとうばん)と呼ばれるくびれた皿が乗せられ、その上に箸と匙が乗せられた。 後代には本膳料理の成立に伴い和様化する。台盤や椅子は用いられなくなり主人も客も床に着座し、銘々膳の形式が導され床に直に安置する高杯に料理が分けられる形式となる。
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