起源と変遷
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「ポリティカル・コレクトネス」の記事における「起源と変遷」の解説
ブリタニカ百科事典に依ると、ポリティカル・コレクトネスという用語自体は、1917年のロシア革命後に成立したマルクス・レーニン主義の語彙の中に初めて登場し、当時はソビエト連邦共産党の政策と原則の遵守を求める言葉として使用されていたという。1934年には、ナチス・ドイツでの弾圧を報告したニューヨーク・タイムズの記事中で「すべてのジャーナリストは活動の許可が必要であり、許可は政治的に正しい意見を持つ純粋な『アーリア人』にのみ付与される」(All journalists must have a permit to function and such permits are granted only to pure ‘Aryans’ whose opinions are politically correct. )との用例があり、この時点では皮肉として用いられていたことが分かる。用語の意義に変化が生じたのは1940年代後半で、マルクス・レーニン主義が米国内で力を増す中で、アメリカ社会党の社会主義者が、アメリカ共産党の共産主義者に対して「『政治的には正しい』が、党路線を遵守する余り、道徳的思想が蹂躙されている」と非難を加える際に利用された。1960年代には米国の教条的で過激な左派の学生グループが性差別主義者や人種差別主義者とみられる学生を吊るし上げる際、しばしば「それは政治的に正しくないぞ! 同志!」という言い回しが用いられたとも伝えられている。1970年代には、この言葉は米国内の新左翼が過激派の主張を自己批判的に揶揄する意味(例えばフェミニストによる「それは政治的に正しい」という言及が、反ポルノグラフィ運動(英語版)に対する皮肉を込めたものであった等)で用いられ、1980年代末から1990年代初頭には(共産主義からの転向者も少なくなかった)新保守派が主に大学内のリベラル系の教授達(進歩主義)を攻撃する用途で、その後はコメディアンが主に新保守派の政治家の政治的言い回しを揶揄する目的で使用するようになったが、1990年代中盤以降はサピア=ウォーフの仮説や言語的相対論を下敷きにした「差別的用語の使用がその差別をより助長する」という理論の元での歴史的用語の修正運動へと変化していき、検閲の反対や言論の自由の維持を求める反対派との間の激しい論争や、「政治的発言(ヘイトスピーチ)の弾圧の為に用いられた」とするレイシストによる反論を招いているとされる。 1980年から1982年に掛けて、フランスの対外諜報機関である対外治安総局(DGSE)に勤務したドミニク・ポワティエ(Dominique Poirier)に依ると、DGSEは1980年代初頭からソビエト連邦のソ連国家保安委員会(KGB)が対外情報工作指針として用いていた積極的措置(英語版)と呼ばれるドクトリンを解析し、自らの行動指針に取り入れていったが、DGSEが入手したKGBの内部資料の中に1968年3月頃に概念が誕生した「сенсибилизация(Sensitization、感作)」と呼ばれるメソッドが存在したと記述している。「感作」の主目的として「従来から存在する言葉の意味を変容させ、一種のステレオタイプを大衆に刷り込む」という心理操作が含まれており、一例を挙げれば「右は悪、厄介、危険だが、左は善良、愛情があり、思いやりがある。」「明るく光沢のある派手な色彩の食材は見た目に反して味が悪く、薄暗く茶色い色調の食材は味が良い」といった、エビデンスの無い思い込みを国の東西を問わず広く大衆に植え付けていく事で、その国が従来から伝統的に持つ観念を破壊する意図が存在したという。ポワティエは「ロシア人は西側諸国に対して「ポリティカル・コレクトネス」という概念を定着させる事に成功した。その国の言語が本来持つ意味を変え、可能な限り暴力的な意味と関連付けて「毒」化させる事によって、国内に不和の種をばら撒き、この概念を信じない者から見れば文化的な自己破壊や自殺を誘発しているように見える事態を招いた。」と指摘している。 ポリティカル・コレクトネスとマルクス主義を関連付ける主張は、1990年代初頭より米国の保守的な評論家の間で「ポリティカル・コレクトネスと多文化主義は、フランクフルト学派の批判理論に基づき、ユダヤ-キリスト教倫理(英語版)を破壊する目的で考案された思想運動である」として、「文化的マルクス主義」の名称で喧伝されていたものであるが、当時は典型的な「フランクフルト校陰謀論」の一つとして、余り広くは支持されていない説であった。こうした説の初出は1992年にリンドン・ラルーシュ(英語版)率いるラルーシュ運動(英語版)の機関紙に掲載されたエッセイで、2001年にはパット・ブキャナンが著書『西側の死(英語版)』に於いて、「ポリティカル・コレクトネスとは文化的マルクス主義であり、そのトレードマークは不寛容である。」と記述した。 一方、自由主義の観点からは、元々は左翼同士が相手に対する皮肉を込めて用いていたポリティカル・コレクトネスという用語を、最も強く政治利用したのは1980年代中盤以降の新保守主義者達であり、彼らがポリティカル・コレクトネスという言葉を使う度に、人種や社会階級、性別、その他様々な法的な不平等の本質的な問題点から人々の政治的議論を逸らしてしまう効果を生んだと主張されている。英国のジャーナリスト、ウィル・ハットン(英語版)は、「ポリティカル・コレクトネスという用語は、1980年代中期以降米国の右派がアメリカ合衆国の自由主義(英語版)を解体する為の素晴らしい道具となった。最も先鋭的な右派の思想家は、自由主義的な文化的表現(英語版)の実践に対して、この言葉を用いて宣戦布告する事をすぐに思いついた。議論の提唱者に対して『それはポリティカル・コレクトネスである』と非難を行う事により、あらゆる自由主義的な問題を平準化してしまい(この観点に立つと、ウィリアム・シェイクスピアが差別主義者だと主張する者も、性的嫌がらせに関与した純粋な青年も、未開の地の保護に奔走する環境主義者も、全て同じポリティカル・コレクトネスの犠牲者や提唱者であると結論づけられ、本質的な議論が行えなくなってしまう)、結果として政治全体に対する信頼性を損なってしまった。」と指摘した。
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起源と変遷
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泉州地方での石工集団の活動を示す最古の例としては古墳時代前期末の堺市二本木山古墳の刳抜式石棺と中期初頭に属する堺市乳岡古墳(百舌鳥古墳群の中の1つである)の長持形石棺がいずれも和泉砂岩製であり、この石材が産出される泉州地方南部で石工が活動し始めた証拠とされる。古墳時代後期においては泉州地方の最大の群集墳である和泉市信太千塚古墳群を始め、この付近の多くの古墳の石室構造にも和泉砂岩が使用されている。また7世紀に建立された泉南市海会寺の礎石にも和泉砂岩が使用されていることが知られている。文献においても9世紀初頭の新撰姓氏録の和泉国神別の条に石作連という氏族が記載されている。しかし、これらの古墳や古代寺院での石材の使用例は供給先がいずれも和泉国(泉州地方)内の限られた狭い範囲であり、はるか後の時代ように数多くの石材製品を他地方に搬出したり、各地に出稼ぎに出たりするような規模の石工集団ではなかったのは明らかである。泉州の石工集団が本格的に活動を開始した時期を示すのは隣国、紀州にある霊場、高野山の中世の五輪塔群である。高野山の西南院には鎌倉時代の弘安期(1278年~1288年)前後の年号日付の有る和泉砂岩の五輪塔4基が存在する。それ以降、和泉砂岩で製作された五輪塔、宝篋印塔が高野山内に多数造立されているようである。有名な戦国大名のものとしては武田信玄の天正元年(1573年)の日付の和泉砂岩製五輪塔も存在する。高野山以外においても、戦国時代から江戸時代にかけては近畿各地に和泉砂岩製の一石五輪塔が搬出されており、かなり離れた近江(滋賀県)地方の琵琶湖沿岸にも和泉砂岩の一石五輪塔が大量に搬入された形跡があると言う。三重県伊勢市荒木田では天正8年(1580年)日付と石屋大工敬白/泉州日根郡鳥取庄の刻印のある和泉砂岩製宝篋印塔が造立されており、形状は高野山の同時期のものと全く同型であるという。さらに、17世紀初めには和泉砂岩石塔は江戸にも搬入されている形跡があると言う。和泉砂岩の石材としての当時の評価についていえば、現在の日本国内で流通している石材で最も高価なものは香川県の庵治石(花崗岩)とされるが、1879年(明治12年)の庵治石産出表によると庵治石は上等の石材だが和泉の石よりは一等下につくとしており、軟質で細密な加工がしやすく、しかも、加工直後には見栄えも良い和泉砂岩は近世には石材として高い評価があったようであり、それを加工する泉州石工への評価をも高める役割を果たしたと言える。また一方、泉州出身の石工集団はその出稼ぎ先や移住先では硬質な花崗岩など現地の石材の加工にも積極的に取り組んだようである。
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起源と変遷
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「鹿沼今宮神社祭の屋台行事」の記事における「起源と変遷」の解説
戦国時代に鹿沼を支配した壬生氏の滅亡とともに、鹿沼城の鬼門の守りとして勧請された鹿沼今宮神社も荒廃した。慶長13年(1608年)3月、鹿沼宿の復興は今宮神社再建を契機として始まったとされ、この年は、日照りが続き、大旱魃となったので、氏子や近郷の人びとが今宮神社に集まり、雨乞いの祭りを三日三晩続けたところ、激しい雷雨がおこった。これより雨のあがった6月19日を宵祭り、翌20日を例祭とすることになったのが起源と伝える。屋台は当初、氏神へ踊りなどを奉納するための移動式舞台だったが、寛政の頃、付け祭りが盛んになるにつれ、囃子方も屋台の中に乗ったため、屋台をつくり替えたり、新屋台をつくる地域も出始め、それまでの踊り屋台としての機能は引き継がれたものの、芸場が狭くなり、別に「踊り台」を屋台の前に設置し、踊りや狂言を演じるようになった。同時に屋台は黒漆塗や彩色され、現屋台の祖形になったと伝えられている。一方、太平の世を謳歌した文化から文政期を過ぎて、江戸幕府の改革(天保の改革)により、祭礼を質素にし、在郷芝居が禁止されることになると人々は屋台を白木の彫刻で飾り、神社にはお囃子を奉納する形へと変化し、現在に受け継がれている。
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起源と変遷
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三条天皇の皇子師明親王が出家して以降は、入道親王(にゅうどうしんのう)という呼称が出家した親王に用いられるようになった。 1099年(承徳3年)、白河法皇の第二皇子で、出家して僧籍に入っていた覚行が親王宣下を受けて「覚行法親王」と呼ばれて以来、男子皇族が出家後に親王宣下を受けた際の称号として定着した。また、入道親王と法親王を合わせて広義の法親王ととらえ、出家後にも親王の品位を保持したものを法親王、遁世して品位を放棄したものを入道親王と呼ぶ区分も存在する。 しかし法親王や入道親王の呼称は曖昧であり、同一人物に対して両方の称号が用いられることもあった。法親王制度ができる以前に出家した高岳親王を戒名から「真如法親王」と呼ぶ事例や、勝海舟が日記において公現入道親王を指して「法親王」と記述していた例もある。 法親王は皇室と縁の深い門跡を務める役割を果たしていたが、幕末になると徳川家茂や岩倉具視などが皇族男子を還俗させ、仏教との関わりを断つよう主張し始めたことによって、多くの出家していた親王が還俗した。慶応4年(1872年)4月、皇族および堂上家の者が出家や僧職にあることは禁じられた。四親王家を除く還俗した法親王・入道親王のものを含む宮家は、明治3年(1870年)12月10日の布告で一代限りの皇族とされていたが、明治天皇の特旨によって存続が認められていったため、実際には一代皇族とされた宮家はなかった。 以降、皇族の出家は一例もないため、法親王・入道親王と呼ばれる存在は出現していない。
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