覚行法親王 (かくぎょうほっしんのう、承保 2年(1075年 )4月 - 長治 2年11月18日 (1105年 12月26日 ))は、平安時代 中期から後期にかけての皇族 ・僧 。白河天皇 の第二皇子。母は藤原経平 の娘経子 。覚念・中御室とも称される。真言宗 仁和寺 の第3世門跡 。
略歴
幼少時、佳子内親王 の養子となったらしいが、詳細は不明[ 1] 。永保 3年(1083年 )に仁和寺 に入り、1085年 (応徳 2年)性信入道親王 の下で出家 ・受戒。性信の没後に仁和寺寺務に就任する。1092年 (寛治 6年)、寛意 から灌頂 を受ける[ 2] 。1098年 (承徳 2年)には父・白河法皇の支援を受けて仁和寺結縁灌頂を行い、直後に円宗寺検校・法勝寺 検校となる。この頃、名を覚念から覚行に改名する[ 3] 。翌1099年 (承徳3年)親王宣下 を受け最初の法親王 となった[ 4] 。1102年 (康和4年)7月尊勝寺 落慶法要供養の導師をつとめ、尊勝寺長吏となり、同年8月に二品に叙される。白河法皇は彼を寵愛して事あるごとに褒賞を与えたが、彼は門人や他の仁和寺僧侶に譲り彼らの昇進を助けた。仁和寺が歴代治天の君 の保護を受け、その子が法親王として御室を継承する慣例を完成させたのは白河法皇と覚行であったと言える。1105年(長治2年)、31歳で没。墓所は京都府 南丹市 園部町 の鴫尾山九品寺 。
脚注
^ 関口『摂関時代文化史研究』P259.
^ この時の模様は大江匡房 及び氏名不詳の2種類の『中御室御灌頂記』によって知ることが可能である。
^ 『中右記 』承徳2年7月21日条初出。
^ 出家後の皇子に親王宣下することについて、関白 藤原師通 が前例 がないとして反対したが、白河法皇が「内親王 といふこともあれば、法親王 もなどかなからむ」と言って強行したという逸話がある(『今鏡 』326段)。
参考文献
関口力「中御室覚行法親王伝」(『仁和寺研究』第一輯、所収:「中御室覚行法親王」、2007年、『摂関時代文化史研究』、思文閣出版、2007年 ISBN 4784213449 P257-286)
仁和寺門跡
初世 空理 899-931
第2世 性信入道親王 ?-1085
第3世 覚行法親王 1085-1105
第4世 覚法法親王 1105-1153
第5世 覚性入道親王 1153-1169
第6世 守覚法親王 1169-1198
第7世 道法法親王 1198-1214
第8世 道助入道親王 1198-1231
第9世 道深法親王 1231-1249
第10世 法助 1249-1258
第11世 性助入道親王 1258-1282
第12世 性仁法親王 1282-1295
第13世 深性法親王 1295-1299
第14世 寛性法親王 1302-1326
第15世 法守法親王 1327-?
第16世 永助法親王 ?-1429
第17世 承道法親王 1429-1453
第18世 法深法親王 1453-?
第19世 覚道法親王 1510-1527
第20世 任助法親王 1539-1584
第21世 覚深入道親王 1601-1648
第22世 承法法親王 1648-1678
第23世 覚観法親王 1683-1707
第24世 守恕法親王 1718-1729
第25世 慈仁法親王 1734-1735
第26世 遵仁法親王 1747
第27世 覚仁法親王 1748-1754
第28世 深仁法親王 1768-1807
第29世 済仁法親王 1809-1847
第30世 純仁法親王 1848-1867
第31世 冷泉照道 1868-1879
第32世 冷泉玄誉 1879-1890
第33世 別処栄厳 1884-1899
第34世 釈雲照 1899-1900
第35世 泉智等 1900-1906
第36世 土宜法竜 1906-1920
第37世 浦上隆応 1920-1926
第38世 石堂恵猛 1927-1943
第39世 岡本慈航 1943-1957
第40世 花桝智勝 1955-1967
第41世 森諦円 1967-1977
第42世 小田慈舟 1977-1978
第43世 立部瑞祐 1978-1983
第44世 小林隆仁 1983-1988
第45世 松村祐澄 1988-1993
第46世 吉田裕信 1993-1998
第47世 堀智範 1998-2003
第48世 佐藤令宜 2003-2008
第49世 南揚道 2008-2013
第50世 立部祐道 2013-2018
第51世 瀬川大秀 2018-