高岳親王とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 宗教家 > 宗教家 > 日本の僧 > 高岳親王の意味・解説 

たかおか‐しんのう〔たかをかシンワウ〕【高岳親王】

読み方:たかおかしんのう

真如(しんにょ)の俗名


高岳親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/23 06:29 UTC 版)

高岳(高丘)親王
(真如入道親王)
真如入道親王
皇太子
在位 大同4年4月14日809年5月31日)- 大同5年9月13日810年10月14日

時代 平安時代初期
生誕 延暦18年(799年
薨去 貞観7年(865年)?
改名 高岳 → 真如(法名)
別名 蹲踞太子、頭陀親王
位階 四品
僧職 東大寺大仏司検校
父母 父:平城天皇、母:伊勢継子
兄弟 阿保親王高岳親王巨勢親王、上毛野内親王、石上内親王、大原内親王、叡奴内親王
在原善淵在原安貞
テンプレートを表示
高岳親王塔遺蹟(清瀧寺

高岳親王(たかおか しんのう、名前は「高丘」とも表記)は、平城天皇の第三皇子。嵯峨天皇皇太子に立てられたが、薬子の変により廃された。のち復権され四品となるが、出家して真如入道親王(しんにょ にゅうどうしんのう)となる。空海十大弟子のひとりで、仏法を求めて老齢で入し、さらに天竺を目指して旅立ったのち消息を絶った。異母兄に阿保親王、甥に在原業平がいる。

名前

名前は「高岳」「高丘」で表記揺れが見られる。杉本直治郎は、新訂増補国史大系六国史を調査した上で、『日本後紀』(840年成立)の大同3年(808年)6月3日条では「高丘」、『続日本後紀』(869年成立)の承和2年(835年)正月6日条では「高岳」と表記されており、『日本三代実録』(901年成立)は「高丘」「高岳」を混用していることを指摘している[1]。その上で杉本は、成立の最も早い『日本後紀』が「高丘」表記であること、『日本三代実録』の引く詔勅がすべて「高丘」表記であることなどを根拠に、「高丘」が本来の表記だと主張している[2]

なお、「入道親王」は出家した親王に対する称号であるが、高丘親王の時代にはまだこの称号はなく[3]、六国史では法名を記す場合には単に「真如」としか表記されていない[4]。また「真如法親王」と表記されることがあるが、「法親王」は出家後に親王宣下を受けた者に対する称号である上、やはり高丘親王の時代にはまだなかった称号であるため、適切ではない[5]

経歴

大同4年(809年)に父・平城天皇が譲位して嵯峨天皇即位すると皇太子に立てられた。

高岳親王の立太子に関しては、兄弟間の皇位継承を志向した桓武天皇の意思に対する平城天皇の反発という見方がある[6]。一方、嵯峨天皇への譲位を平城天皇の意思と見る立場からは、位を譲られた嵯峨天皇の配慮とする見解がある[7]。桓武天皇の嫡子が平城天皇である以上、その子が立太子されること自体には問題がなかったと考えられるが、その母親の出自が皇族でも藤原氏のような有力貴族でもなかったことが波紋を呼んだらしく、「蹲居太子」と評されたという(『続日本後紀』承和2年正月壬子条・『日本三代実録』元慶5年10月13日条)[注釈 1]

大同5年(810年)の薬子の変に伴う政変により皇太子を廃された。しかし、薬子の変に高岳親王が関与した証拠は無く、平城上皇の事件に対する責任も問われなかった[注釈 2]結果、廃太子を正当化する理由が見出せなくなってしまったためと推測されるが、新しく皇太弟になった大伴親王(後の淳和天皇)の立太子の詔は出されたものの、高岳親王の廃太子に関して詔勅などの公式文書が出される事は無いまま、皇太子の地位ではなくなった[17]。また、高岳親王が当時12歳と、年齢が低かったことからも、変に関与したと考えるのは不自然である。

弘仁13年(822年)、四品に叙せられ名誉回復がなされたが、その後出家した。真如を名乗り、奈良の宗叡修円、そして空海の弟子として修行した。やがて空海の十大弟子の一人となり、高野山に親王院を開いた。阿闍梨の位を受け、『胎蔵次第』を著した。承和2年(835年)に空海が入定すると、高弟の1人として遺骸の埋葬に立ち会っている。斉衡2年(855年)、地震により東大寺大仏の仏頭が落ちた際、東大寺大仏司検校に任じられ修理の指揮を執った。

老年になり、入求法を志して朝廷に願い出た。

貞観3年(861年)に親王や宗叡らの一行23人は奈良を発ち九州に入り、翌貞観4年(862年)に大宰府を出帆して明州(現在の寧波)に到着した。貞観6年(864年)、長安に到着した。在唐30余年になる留学僧円載の手配により、西明寺に迎えられた。しかし、当時の唐は武宗仏教弾圧政策(会昌の廃仏)の影響により仏教は衰退の状態にあったこともあり、親王は長安で優れた師を得られなかった。このため親王はさらに天竺行きを決意した。貞観7年(865年)、唐皇帝の勅許を得て、従者3人と共に広州より海路天竺を目指し出発したが、その後の消息を絶った。16年後の元慶5年(881年)、在唐の留学僧中瓘らの報告において、親王は羅越国(マレー半島の南端と推定されている)で薨去したと伝えられている[18]。巷説ではの害に遭ったという話もある。

現在、マレーシアジョホール・バル日本人墓地には、高野山の親王院が日本から御影石を運んだ親王の供養塔が建立されている。

系譜

伝記研究

文学作品

脚注

注釈

  1. ^ ただし、「蹲居太子」の意味については、高岳親王の立太子の理由も含めて様々な説が出されている[8]。①引っ込み思案であるという意味(新村出[9])。②寛容もしくは謙抑であるという意味(西岡虎之助[10])。③礼法に適った人物であるという意味(杉本直治郎[11]・中川久仁子[12])。④考えながら漂泊流浪する人であるという意味(川口久雄[13])⑤権威が認められていない皇太子の意味(河内祥輔[14]・保立道久[15])。⑥高岳親王と藤原薬子の関係を示唆する説(佐伯有清[16])。⑦父・桓武天皇の遺志に反した平城天皇への批判とする説(西本昌弘[8])⑧何らかの不祥を意味していたとする説(『大日本史』『弘法大師弟子譜』など)。
  2. ^ 大同5年9月10日に出された嵯峨天皇の詔では、藤原仲成・薬子姉妹が平城上皇を唆した事件と認定されている。

出典

  1. ^ 杉本 1965, pp. 29–30.
  2. ^ 杉本 1965, pp. 31–38.
  3. ^ 杉本 1965, p. 53.
  4. ^ 杉本 1965, p. 54.
  5. ^ 杉本 1965, pp. 41–54.
  6. ^ 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年), pp. 162-163・167/初版:1986年, pp. 166・171
  7. ^ 春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館、2009年), pp. 90-93・102-104
  8. ^ a b 西本昌弘「桓武改葬と神野親王廃太子計画」『平安前期の政変と皇位継承』(吉川弘文館、2022年), pp. 153-155:初出:『続日本紀研究』359号(2005年)
  9. ^ 新村出「真如親王の記念と新嘉坡」『新村出全集』第9巻、筑摩書房、1972年、pp. 418(初出:1923年)
  10. ^ 西岡虎之助「高丘親王の性格」『西岡虎之助著作集』四、三一書房、1978年
  11. ^ 杉本直治郎『真如親王伝研究-高丘親王伝考-』(吉川弘文館、1965年), pp. 65
  12. ^ 中川久仁子「高丘親王-〈蹲居太子〉の号をめぐって-」『平安京遷都期政治史のなかの天皇と貴族』(雄山閣、2014年)
  13. ^ 川口久雄『平安朝日本漢文学史の研究』(明治書院、1982年), pp. 275
  14. ^ 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年), pp. 174/初版:1986年, pp. 170
  15. ^ 保立道久『平安王朝』(岩波書店、1996年), pp. 24
  16. ^ 佐伯有清『高丘親王入唐記-廃太子と虎害伝説の真相-』(吉川弘文館、2002年), pp. 25-27
  17. ^ 春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館、2009年), pp. 217
  18. ^ 日本三代実録』元慶5年10月13日条

参考文献

  • 杉本直治郎『真如親王伝研究 高丘親王伝考』吉川弘文館、1965年7月30日。NDLJP:2998600 
  • 「異端の皇子・皇女人物事典」『天皇家歴史大事典』新人物往来社、2000年9月21日。

関連項目

外部リンク




高岳親王と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高岳親王」の関連用語

高岳親王のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高岳親王のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの高岳親王 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS