てんぽう‐の‐かいかく【天保の改革】
天保の改革
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天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代の天保年間(1841年 - 1843年)に行われた幕政や諸藩の改革の総称である。享保の改革、寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つに数えられる[1]。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした。またこの時期には、諸藩でも藩政改革が行われた。
注釈
- ^ (1794 - 1851年)。譜代大名で肥前国唐津藩主家に生まれるが、唐津藩は長崎の管轄を担当するため幕政参与を見込めず、自ら国替えを望み、側用人水野忠成の計らいもあって文化14年(1817年)には遠江国浜松藩に転封され、寺社奉行となる。その後は大坂城代・西丸老中と出世し、老中首座となる。
- ^ なお、大奥については姉小路ら数人の大奥女中に抵抗されたことで、改革の対象外とされた。
- ^ (1804年 - 1874年)。儒学者林述斎の子として生まれ、天保8年に目付となり、目付時代には蛮社の獄における詮議を行っている。水野に抜擢されて改革に携わるが、上知令においては反対派にまわり、水野失脚後にも政権に残ったが、水野が老中首座に返り咲くと罷免されている。
- ^ なお、新吉原の6ヶ所については全て免除されている。
- ^ 平人との交際の禁止、居住地の限定、湯治・参詣などの名目での旅行の禁止、外出時の編笠着用の強制。
- ^ なお、この際に株仲間の解散を諌めた矢部定謙が無実の罪を着せられ、非業の死を遂げている。
- ^ もっとも、諸藩の場合は行政区域が狭くて課題が少なく、その分経済・財政問題に集中できたという側面もある。[要出典]
出典
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “三大改革(さんだいかいかく)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年5月17日閲覧。
- ^ 福和伸夫 (2020年8月24日). “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫) - 個人 - Yahoo!ニュース”. Yahoo!ニュース. 2020年12月2日閲覧。
- ^ 富士川 1966, p. 130
- ^ 飯田 & 春日, pp. 255–256
天保の改革
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13代藩主に就任した毛利敬親は、1843年(天保14年)に藩校明倫館の改革に着手、文武奨励に取り組んだ。これ以降、医学教育や種痘の普及、博習堂の設置等洋学の推進を進め、恵美須ヶ鼻造船所での丙辰丸の建造や兵制改革等強兵策も断行した。この試みは明治維新に先駆けた産業革命と評価されており、遺跡は、産業化等についての政策形成や当時の改革時の伝統的経済の姿を今に伝えている。幕末、公武合体論や尊王攘夷を拠り所にして京都で政局を主導、藩士吉田松陰の私塾松下村塾は幕末・維新期で活躍する多くの人材を輩出した。
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天保の改革
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「天保の改革」も参照 天保の改革を主導した老中首座水野忠邦は、アヘン戦争で清国がイギリスに敗れ、また日本近海にも外国船がしばしば出没する状況にてらし、将来、日本にも外国が攻めてくる事態もありうるとみていた。特に江戸は政治の中心地、大坂は経済の中心地であって、両都市付近に外国船が来襲した際の危機管理が課題となった。 これまで江戸・大坂十里(約39キロメートル)四方は、幕府領(天領)、大名領、旗本領が入り組んでいた。そこで大名、旗本には十里四方に該当する領地を幕府に返上させ、かわりに、大名・旗本の本領の付近で替え地を幕府から支給するという命令を出し、江戸・大坂十里四方を幕府が一元的に管理する方針を固めた。特に関東農村の場合は、所領の飛び地が幕府支配の弱体化を招いていたことは明らかであった。19世紀に入ってから江戸幕府は、関東取締出役や組合村を設けて統一的な警察行政を試行錯誤してきたが、ここに広域の代官領を置いて一円的な支配を行うこととしたのである。また、幕府はアヘン戦争のような事態も想定し、江戸湾の入り口の最も狭い富津と浦賀を結ぶ線よりも南は、西岸(三浦半島側)を川越藩が、東岸(房総半島側)を忍藩が防備することと定め、その北側の防備を新設された羽田奉行によって幕府自ら指揮する体制を整えつつあったので、幕府財政を建て直すのみならず、軍事的な必要からも、江戸周辺の入り組んだ領地の整理が特に必要とされたのであった。水野はさらに、この施策を全国的に拡大することも考慮していた。 1843年(天保14年)6月1日、上知令が発布された。最初に上知令の対象となったのは、多くが譜代大名の小藩や旗本・御家人領であった。500石以上の者には年貢率の低い替え地を、500石以下の者には金10両をあたえるとしたため、江戸大坂十里四方に領地を持つ大名・旗本からは反対が起こった。領地替えは莫大な経費を必要とするため、加増を伴う栄転的な領地替えや、何らかの落ち度があっての懲罰的な領地替えでなければ、大名旗本にとって承服できるものではなかった。ことに江戸近傍に関しては、徳川家康以来先祖が武功によって拝領した由緒正しい領地は、罪なく所替えされないという意識が確立されていた。幕府といえども領地には容易に手出しができないという観念に対し、水野は「ご当代(現将軍)の思し召ししだい」「今は、いまの思し召すまま」の論理で対抗しようとした。 加えて、当時の大名旗本の多くは領民から借金をしており、領地替えに際しては借金が踏み倒されるのではないかという領民側の危惧があった。多くの大名・旗本、特に貨幣経済が発達している大坂・江戸近辺においては、財政上の理由で藩札・旗本札を発行しており、これは実質的に領民から借金をしたに等しかった。財政的に余裕がある大名・旗本であっても、隣接する他領で藩札や旗本札が発行されていると、自領からの正貨流出を食い止めるため、対抗して藩札・旗本札を発行せざるを得なかった。大名・旗本が国替えになると、従来の藩札・旗本札は無価値になるため、その前に正貨との交換をしなければならないが、ただでさえ領地替えのため出費が必要な大名旗本の側に交換する余裕がなく、額面からかなり差し引いた金額での交換を余儀なくされることが懸念された。ことに大坂周辺では、年貢の先納(翌年度分の年貢の前取り)も行われており、村々と大名・旗本のあいだには不即不離の関係が成立していた。知行所の村方に年貢などの運用を一任し、かわりに大名や旗本への月々の賄金の送金や彼らの古い借金の返済を知行所村々が引き受けるしくみもできていた。肥沃の私領と薄痩の天領を交換させられるのではないかと領主は怖れ、領民たちは莫大な借金の踏み倒しと天領になってからの年貢取立の厳格化を怖れた。 水野忠邦の同僚にあたる老中土井利位は、本領は下総国古河藩であったが、河内国や摂津国にも飛び地を持っていた。土井家は河内、摂津の農民に借金があり、農民達は上知と同時に借金が踏み倒されるのではと恐れ、土井家に繰り返し上知反対の強訴が発生した。また、御三家の紀州藩や水戸藩からも反対の声が上がった。反対派は土井利位を盟主に担いで上知令撤回と、水野忠邦の老中免職に動き出した。水野忠邦の主だった腹心達(町奉行鳥居耀蔵、勘定奉行榊原忠職)らも土井派に寝返り、鳥居に至っては忠邦の機密資料を残らず土井に流すという徹底ぶりであった。大奥も反対にまわった。忠邦は孤立し、将軍徳川家慶の裁断により上知は取りやめとなった。閏9月7日、忠邦が欠席のまま土井利位から上知令撤回の幕命が出された。閏9月13日、忠邦は辞表を提出し、上知令ともども天保の改革は挫折した。このとき、水野忠邦の屋敷前に町民が数千人も夜中に集まり、屋敷に向けて投石し、近くの辻番所をうちこわす大騒動になったといわれている。
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天保の改革
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詳細は「天保の改革」を参照 松平信明が死去すると将軍家斉(のち隠居して大御所)が自ら政権の表に立つ。ただし実際には、側近である老中・水野忠成が幕政を壟断し、田沼時代を上回る空前の賄賂政治が横行した(→大御所時代)。その水野忠成が死し、大御所家斉も没した後、12代家慶が幕政改革に意欲を見せる。老中として改革を主導したのは忠成の同族の水野忠邦であった。忠邦が主導した諸改革を天保の改革と呼ぶ(1841年 - 1843年)。江川坦庵(英龍)・遠山景元・鳥居忠燿(燿蔵)ら実務派の官僚が採用されたが、内容自体は田沼時代を受けた寛政の改革の再来ともいえ、新味は無かった。主な改革としては、綱紀粛正・倹約令徹底による消費の抑制、人返しの法による都市住民の農村への帰還、株仲間の解散令、棄捐令などである。また対外政策では、大御所時代に出された無二念打払令を改め、無用の戦を避けるため薪水給与令が出され、江川や高島秋帆による西洋砲術導入による国防策も図られた。背景には同時期に清国で勃発したアヘン戦争による危機感があったと思われる。ただし、水野の腹心・鳥居燿蔵は蘭学を嫌い、蛮社の獄を起こした人物でもあり、政権内で不協和音となった。数々の改革も財政の健全化には結びつかず、また倹約令の徹底によって庶民の恨みも買ったことから、水野の求心力は急速に低下した。また、国防上の必要性から江戸・大坂の大名・旗本領を幕府に召し上げようとする上知令を推進しようとしたところ、大名・商人らの猛反撥を招くこととなり、将軍家慶自ら撤回を命ずる事態となり、水野は失脚し、天保の改革はわずか2年にして崩壊した。翌年、対外政策の紛糾により、再度老中に任命されたものの、相変わらず幕閣・大名の不信は強く、1年にして辞任に追い込まれた。
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天保の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 07:29 UTC 版)
江戸幕府第11代将軍徳川家斉が将軍職から退き、12代将軍に徳川家慶が就任する3年前に、老中水野忠成の後任として水野忠邦が新たな老中首座となった。彼は相次ぐ飢饉による物価の高騰、そして農村部での離村による生産力低下という「内」の危機と、ゴローニン事件やフェートン号事件などに代表される外国船の接近という「外」の危機、つまり内憂外患に対応するため改革を決意。しかし、徳川家斉は将軍職を退いた後も大御所として強い権力を振るっており、彼の寵臣も改革の道を阻んだ。この大御所時代に、一度帰村を強制することについて諮問がなされているが、法令の制定には至っていない。 天保12年(1841年)、大御所家斉が死去すると、忠邦は改革派の勢力をつくり、相次いで家斉の寵臣を粛清。遠山景元や鳥居耀蔵といった人材を登用し、天保の改革をスタートさせた。天保13年(1842年)8月、忠邦は町奉行に対し強制的な帰村を命じる政策について評議させたが、慣れ親しんだ江戸での生活から無理矢理引き剥がして帰村させるのは現実的では無いと回答して、強制帰村の政策に反対した。翌年の再評議においても意見の大筋は同様で、帰村を強制するよりもまずは人別改を強化した方が良いとの回答があった。これを受けて天保14年(1843年)、人返しの法が発令された。主な内容は、 新規に在方の農民が江戸の人別帳に入ることを禁止。 出稼ぎなどで短期間江戸に居住する場合は、村役人連印の願書に必ず領主の押印がある免許状を必要として、これが無い者には江戸で住居を貸す・奉公させることを禁止、そしてまた出稼ぎの者を江戸の人別帳に登録することも禁止とした。 この人別改の強化で江戸の人口増加を防ぐ狙いがあったが、その効果については疑問視されている。
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