阿部正右とは? わかりやすく解説

阿部正右

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 00:57 UTC 版)

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阿部正右
時代 江戸時代中期
生誕 享保9年11月29日1725年1月13日
死没 明和6年7月12日1769年8月13日
改名 富之助、正治、正右
戒名 西閣院殿楼誉託方練契
墓所 谷中霊園
官位 従五位下伊予守従四位下侍従
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行京都所司代、西丸老中、本丸老中
主君 徳川家重家治
備後福山藩
氏族 阿部氏
父母 阿部正福島津吉貴の養女
兄弟 酒井忠雄正右、米津田恒、正興、安藤定振、正至、六郷政林正室、諏訪忠厚正室ら
正室丹羽高寛の娘
側室:中島氏
正表、正固正倫
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阿部 正右(あべ まさすけ)は、江戸時代中期の大名老中備後国福山藩の第3代藩主官位従四位下侍従。阿部家宗家7代。

生涯

福山藩の第2代主・阿部正福の次男として江戸藩邸にて誕生。幼名、富之助。初名、正治。

元文3年(1738年)に14歳で徳川吉宗御目見し、伊予守に任じられ従五位下に叙される。寛延元年(1748年)、25歳で正福から家督を譲られ、明和6年(1769年)に死去するまで28年間藩主を務めた。ただし、藩主在任期間の大部分は幕政へ参画しており、藩政に直接関与することはほとんどなかった。

福山藩主に就任した正右は、寛延3年(1730年)に福山に入部し、領内を視察するが、その後は江戸または京都に住まった。宝暦2年(1752年)に奏者番に任じられ、宝暦6年(1756年)に寺社奉行を兼任し、宝暦10年(1760年)には京都所司代に転任して従四位下に叙された。京都所司代在任中には先例を破り処分を受けることもあったが、後桜町天皇即位の祭礼を取りまとめるなど活躍する。明和元年(1764年)に西丸老中に就任し、翌年(1765年)本丸老中に任じられる。なお、阿部家宗家が老中を務めるのは、5代前の重次以来約100年ぶりであった。

しかし、一方で正右の出世には多額の経費が費やされ、福山藩は無理な支出を強いられることになった。そのため藩は藩札(銀札)を濫発し、厳しい財政を補填しようとしたが、勢い市場を混乱に陥れ、藩の信用は失墜することになった。事態に窮した藩は藩札の強制使用を命じ、更には「御用銀」を領民に賦課した。しかし宝暦3年(1753年)、これに反発した領民による一揆が勃発して、政策は撤回されることになった。その後、藩は流通統制や財政の緊縮に努め、財政の健全化を図ろうとするが、正右の死去までに状況が好転することはなかった。また、こうした状況の中で、藩士の綱紀は弛緩しきったという。

明和6年(1769年)に死去し、跡を3男・正倫が継いだ。

経歴

は西閣院殿楼誉託方練契。墓地は西福寺台東区浅草)、のち谷中墓地(台東区谷中)に改葬。

官位

系譜

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