丹羽高寛とは? わかりやすく解説

丹羽高寛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/17 09:48 UTC 版)

 
丹羽高寛
丹羽高寛
時代 江戸時代中期
生誕 宝永5年1月27日1708年2月18日[1]
または宝永4年(1707年[2]
死没 明和6年6月7日1769年7月10日[1]
または同年6月29日(同年8月1日[3]
改名 高寛、豁如(号)
別名 百介、五郎左衛門
戒名 大嶽院殿豁如了然大居士
墓所 福島県二本松市の大隣寺
官位 従五位下左京大夫従四位下
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
陸奥二本松藩
氏族 丹羽氏
父母 父:丹羽長道、母:沢井氏
養父:丹羽秀延
正室:丹羽長之の娘
側室:久保氏
高庸、生駒親信、津田正安、安藤定慶、阿部正右正室、稲葉正益継室、西尾忠雅正室、丹羽長裕室、小浜致隆正室、菅谷政常正室
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丹羽 高寛(にわ たかひろ)は、江戸時代中期の大名陸奥国二本松藩の第5代藩主官位従四位下左京大夫。丹羽家第6代。長崎奉行などを務めた丹羽長守の孫。

生涯

享保7年(1722年)3月28日、旗本・丹羽長道(藩祖・丹羽長秀の6男で1500石の旗本となった丹羽長次の子孫)の嫡子として、第8代将軍・徳川吉宗に初御目見する。享保13年(1728年)6月25日、先代藩主・丹羽秀延の死により、末期養子として家督を継いだ。同年7月1日、改めて徳川吉宗に御目見する。同年9月7日、従五位下左京大夫に叙任する。享保15年6月23日、陸奥国伊達郡信夫郡の幕領5万石を預けられる。享保19年12月18日、従四位下に昇進する。寛保2年(1742年)11月17日、預かり地を幕府に返還する。

老臣の丹羽忠亮と共に綱紀粛正と文武の奨励に取り組み、儒者の桂山彩厳の推挙により、岩井田昨非を召抱える。

延享2年(1745年)5月9日に病気のため隠居し、長男・高庸に家督を譲った。隠居後、豁如と号する。明和6年(1769年)に死去した。

逸話

寛延2年(1749年)、昨非の献策により、二本松城前に藩士たちへの戒めのため「戒石銘碑」を彫らせた。

爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺
(爾の俸、爾の禄は 民の膏 民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し)

と刻まれており、藩政改革と綱紀粛正の指針を示した。

系譜

父母

  • 丹羽長道(実父)
  • 沢井氏 - 側室(実母)
  • 丹羽秀延(養父)

正室

側室

  • 久保氏
  • 美濃部氏
  • 大谷氏
  • ルノ
  • チセ
  • フジ
  • 稲垣氏

子女

  • 丹羽高庸(長男)生母は久保氏(側室)
  • 生駒親信(次男)生母は大谷氏(側室) - 生駒親賢の養子
  • 津田正安、生母はチセ(側室)
  • 安藤定慶、生母は稲垣氏(側室)
  • 阿部正右正室、生母は美濃部氏(側室)
  • 稲葉正益継室、生母は稲垣氏(側室)
  • 西尾忠雅正室、生母はルノ(側室)
  • 丹羽長裕室、生母はフジ(側室)
  • 小浜致隆正室、生母は梅(側室)
  • 菅谷政常正室

脚注

  1. ^ a b 丹羽高寛」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社https://kotobank.jp/word/%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%AB%98%E5%AF%9Bコトバンクより2025年4月17日閲覧 
  2. ^ 寛政重修諸家譜 第4輯』国民図書、1923年、p.749。
  3. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』新人物往来社、1986年、p.123。

関連項目





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