明和6年 (つちのとうし 己丑)
年(年号) | |
●1764年 (明和元年) | ■江戸大火 |
●1772年 (安永元年) | ■目黒行人坂火事 |
●1783年 (天明3年) | ■浅間山噴火 |
●1789年 (寛政元年) | ■棄捐令 |
・ 青木 昆陽 | 1698年〜1769年(元禄11年〜明和6年) | 71才 |
・ 与謝 蕪村 | 1716年〜1783年(享保元年〜天明3年) | 53才 |
・ 田沼 意次 | 1720年〜1788年(享保5年〜天明8年) | 49才 |
・ 平賀 源内 | 1728年〜1779年(享保13年〜安永8年) | 41才 |
・ 杉田 玄白 | 1733年〜1817年(享保18年〜文化14年) | 36才 |
・ 中川 淳庵 | 1739年〜1786年(元文4年〜天明6年) | 30才 |
・ 伊能 忠敬 | 1745年〜1818年(延享2年〜文政元年) | 24才 |
・ 長谷川 平蔵 | 1745年〜1795年(延享2年〜寛政7年) | 24才 |
・ 塙 保己一 | 1746年〜1821年(延享3年〜文政4年) | 23才 |
・ 司馬 江漢 | 1747年〜1818年(延享4年〜文政元年) | 22才 |
・ 並木 五瓶 | 1747年〜1808年(延享4年〜文化5年) | 22才 |
・ 大田 南畝 | 1749年〜1823年(寛延2年〜文政6年) | 20才 |
・ 蔦谷 重三郎 | 1750年〜1797年(寛延3年〜寛政9年) | 19才 |
・ 笠森 お仙 | 1751年〜1827年(宝暦元年〜文政10年) | 18才 |
・ 桂川 甫周 | 1751年〜1809年(宝暦元年〜文化6年) | 18才 |
・ 喜多川 歌麿 | 1753年〜1806年(宝暦3年〜文化3年) | 16才 |
・ 鶴屋 南北 | 1755年〜1829年(宝暦5年〜文政12年) | 14才 |
・ 大槻 玄沢 | 1757年〜1827年(宝暦7年〜文政10年) | 12才 |
・ 松平 定信 | 1758年〜1829年(宝暦8年〜文政12年) | 11才 |
・ 葛飾 北斎 | 1760年〜1849年(宝暦10年〜嘉永2年) | 9才 |
・ 山東 京伝 | 1761年〜1816年(宝暦11年〜文化13年) | 8才 |
・ 酒井 抱一 | 1761年〜1828年(宝暦11年〜文政11年) | 8才 |
・ 高橋 至時 | 1764年〜1804年(明和元年〜文化元年) | 5才 |
・ 十返舎 一九 | 1765年〜1839年(明和2年〜天保10年) | 4才 |
・ 滝沢 馬琴 | 1767年〜1848年(明和4年〜嘉永元年) | 2才 |
・ 雷電 為衛門 | 1767年〜1825年(明和4年〜文政8年) | 2才 |
・ 佐藤 信淵 | 1769年〜1850年(明和6年〜嘉永3年) | 0才 |
・ 鈴木 春信 | ????年〜1770年(??年〜明和7年) | ?才 |
1769年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/18 05:05 UTC 版)
1769年(1769 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
- ^ “1769 June 3rd-4th Transit of Venus”. HM Nautical Almanac Office. 2017年9月16日閲覧。
- ^ チャロナー 2011, p. 208, アークライトの新技術が、布地の大量生産を加速させる。.
- ^ Jean Lannes, duc de Montebello French general Encyclopædia Britannica
- 1 1769年とは
- 2 1769年の概要
- 3 できごと
- 4 参考文献
- 5 関連項目
1769年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 06:10 UTC 版)
詳細は「1769年」を参照 ジェームズ・ワット、実用的な蒸気機関を発明。
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1769年
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次の太陽面通過は1769年6月3日に発生した。それまでの間に七年戦争は終結して、航海時の安全は向上した。また、啓蒙思想がヨーロッパ各国の権力層にも広がったおかげで科学事業への協力を得やすくなり、各国の国王も観測事業の全面的な支援を行う者が増え、観測に向けた状況は改善していた。これを逃すと次の太陽面通過は1874年まで起こらないため、今回の観測成功は必須となっていた。ブラック・ドロップ現象克服のために、より性能の高いアクロマート望遠鏡(英語版)も普及した。 1769年の観測には、前回の国々にデンマークも新たに加わり、マキシミリアン・ヘル(英語版)とその助手のヤーノシュ・シャイノヴィチ(英語版)を当時デンマークの支配下にあったノルウェーのバルデに派遣した。アメリカでは、前回に観測を行った天文学者はウィンスロップだけだったが、1769年にはフィラデルフィアのアメリカ哲学協会もアメリカの地位向上を目指して観測に参加した。デイビット・リッテンハウス(英語版)が計算を行い、それをもとに3箇所でアメリカ哲学協会の会員たちが観測を行った。ロシアも、エカチェリーナ2世がロシアの地位・名声の向上のために、前回よりも大がかりな観測隊を準備させた。エカチェリーナは、東の最果てのヤクーツクまでも含めて、8つの遠征隊を広い帝国の各地域へ派遣した。 フランスでは、ドリルに代わりジェローム・ラランドが計画の指揮を執っていた。1761年に遠征したパングレとシャップとル・ジャンティは、1769年の太陽面通過でも再び遠征地にて観測を行った。パングレは中央アメリカのハイチへ派遣され、観測を行った。シャップはメキシコのバハ・カリフォルニアへ遠征し、良好な観測を達成した。しかし、当時のメキシコではチフスが流行しており、観測隊も次々に感染して亡くなっていった。観測後に看病しながら仕事を続けていたシャップも感染し、観測地にて没した。シャップの観測記録は、観測隊の生存者によって1年後にパリへ届けられた。1761年にはインド洋上で観測を強いられたル・ジャンティは、観測後はフランス本国には戻らずにインド洋周辺に滞在し、次の太陽面通過に向けて準備を行った。ル・ジャンティはフィリピンのマニラで観測を行うことにしたが、フランス本国からはインドのポンディシェリで観測がより良いと連絡が届けられた。1769年、ル・ジャンティは予定を変更してポンディシェリで観測を行ったが、当日の天候は曇りで、太陽面通過を観測することはできなかった。さらには、観測の帰途で船が難破し、11年を経てパリへ帰還した際にはル・ジャンティは死んだことになっており、財産とアカデミーでの地位を失っていた。 イギリスでは、マスケリンが1765年にグリニッジ天文台の天文台長となり、1769年の観測を統率した。前回遠征したディクソンとメイソンは再度観測のために遠征し、ディクソンはノルウェーへ、メイソンはアイルランドへ派遣された。さらに、ウィリアム・ウェールズ(英語版)を北アメリカのハドソン湾へ、ジェームズ・クックを南太平洋のタヒチ島へ派遣した。ハドソン湾への航路は初夏まで凍り付くため、ウェールズは1768年の春の暮れに出航し、観測地で冬を越し、太陽面通過が起こる1769年6月まで待つ必要があった。ジェームズ・クックは、天文学者のチャールズ・グリーン(英語版)と共にエンデバー号で出航し、未開だったタヒチへの航海を成し遂げ、観測に成功した。この航海は、後にキャプテン・クックと呼ばれるクックの第1回航海に当たる。天候に恵まれて太陽面通過の様子を十分観測することはできたが、ブラック・ドロップ現象が現れ、接触の時刻を精密に記録することはできなかった。 最終的には、1769年の太陽面通過では、77ヶ所で150以上の観測が行われた。観測結果にもとづく太陽視差の計算結果は、8.43秒から8.80秒までの値が報告された。1716年に観測を呼びかけたハレーの見込みでは太陽面通過の観測から1/500の精度で測定可能とされており、今回もブラック・ドロップ効果の邪魔が入る結果となった。しかし、もっと良い精度の結果が期待されてはいたものの、1761年に得られた値からさらに現代の値に近いより正確な値を得ることができた。後の1824年にヨハン・フランツ・エンケが経度の最新値と最小二乗法を使い、1761年と1769年の観測記録から太陽視差8.5776秒という値を算出した。この値は、その後四半世紀ほど太陽視差の代表的値として扱われた。
※この「1769年」の解説は、「金星の太陽面通過」の解説の一部です。
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1769年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 18:13 UTC 版)
1769年のサロンでは、ジャン=バティスト・グルーズが歴史画家としての承認を求めて『セプティミウス・セウェルス帝とカラカラ』を出品したが、歴史画家としてのアカデミー入会は認められず、風俗画家としての入会となった。ドゥニ・ディドロからは、サロン評で「グルーズは自分の領分を放棄した。自然の熱心な研究者である彼は、歴史画が必要とする誇張の域に達することができなかった」と批判された。これ以後、グルーズは、フランス革命までの時期にはサロンに出品しなくなった。既に名声を得ていたグルーズにとっては、市民層のために制作を続ければ経済的に成り立つため、名誉が得られないのであればサロンに出品する必要はなかった。 ジャン=バティスト・グルーズ『セプティミウス・セウェルス帝とカラカラ』1869年。油彩、キャンバス、124 × 160 cm。ルーヴル美術館。
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「1769年」の例文・使い方・用例・文例
- イタリア人の1769年から1774年までの教皇で、支持がカトリック・ヨーロッパに残っているにもかかわらず敗れ、教会が非宗教的な王子の手に落ちる原因となった(1705年−1774年)
- 米国の政治家で、ニューヨーク州知事としてエリー運河を造るためにプロジェクトを支持した(1769年−1828年)
- フランスの自然主義者で、比較解剖学の父として知られる(1769年−1832年)
- 英国のトランプゲームについて書いた作家(1672年−1769年)
- ドイツの自然主義者で、中南米を探検し、物理的宇宙に対する包括的記述をもたらした(1769年−1859年)
- 英国の肖像画家で、反ナポレオン連合の指導者の一連の肖像で知られる(1769年−1830年)
- アルバニアの軍人で、エジプトの総督になり、オスマン帝国からの支配を取り除いて、近代国家としてエジプトを確立したトルコに仕えた(1769年−1849年)
- フランス皇帝になったフランスの将軍(1769年−1821年)
- フランスのナポレオン戦争の司令官(1769年−1815年)
- オタワ族の有名な酋長で、英国人に対し反乱を起こしたが破れた(1715年−1769年)
- 1760年から1769年までの10年間
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