はなわ‐ほきいち〔はなは‐〕【塙保己一】
塙保己一
塙 保己一 (はなわ ほきいち)
1746〜1821 (延享3年〜文政4年) |
【国学者】 盲目のハンデを乗り越えた、学問への情熱。麹町に和学講談所を設立。 |
国学者。武蔵国の農家出身。7歳で失明。15歳で江戸に出て、最初は鍼医術などを学ぶ。学問の才を見いだされ、賀茂真淵などに師事、国学者となる。1779年から古典文学や記録など貴重な文献資料を分類、整理した『群書類従』に着手し、41年かけて全670巻刊行を終了した。この間水戸藩の『大日本史』の校正にも参画、93年には麹町に和学講談所を設立した。 |
年(和暦) | ||
●1764年 (明和元年) | ■江戸大火 | 18才 |
●1772年 (安永元年) | ■目黒行人坂火事 | 26才 |
●1783年 (天明3年) | ■浅間山噴火 | 37才 |
●1789年 (寛政元年) | ■棄捐令 | 43才 |
●1790年 (寛政2年) | ■石川島に人足寄場を設置 | 44才 |
●1791年 (寛政3年) | ■江戸市中銭湯の男女混浴を禁止 | 45才 |
●1797年 (寛政9年) | ■湯島聖堂を昌平坂学問所と改称 | 51才 |
●1803年 (享和3年) | ■江戸開府200年 | 57才 |
●1806年 (文化3年) | ■芝の大火 | 60才 |
●1808年 (文化5年) | ■フェートン号事件 | 62才 |
・伊能 忠敬 | 1745年〜1818年 (延享2年〜文政元年) | +1 |
・長谷川 平蔵 | 1745年〜1795年 (延享2年〜寛政7年) | +1 |
・司馬 江漢 | 1747年〜1818年 (延享4年〜文政元年) | -1 |
・並木 五瓶 | 1747年〜1808年 (延享4年〜文化5年) | -1 |
・大田 南畝 | 1749年〜1823年 (寛延2年〜文政6年) | -3 |
・蔦谷 重三郎 | 1750年〜1797年 (寛延3年〜寛政9年) | -4 |
・笠森 お仙 | 1751年〜1827年 (宝暦元年〜文政10年) | -5 |
・桂川 甫周 | 1751年〜1809年 (宝暦元年〜文化6年) | -5 |
塙保己一
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塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。また、一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗る。雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一(ほきいち)と改名した。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位。
注釈
- ^ 『塙先生伝』に「母をうしないてこひしのぶこと尋常ならず、是より漸く東都に出て、業を成すべき心起こされ」とある。
- ^ 15歳で江戸に出て、雨富須賀一に入門したとする説もある。その根拠として、保己一の結婚まもなくの頃に書かれた随筆『一話一言』の中で、親友大田は「十余歳にして江戸に出て、高井下総守殿につかふ」と記している。『温故先生伝』に「十三のとし江戸へいてて鍼術をまなひけるにすこふるその妙をえたり」「数年高井大隅守に宿居いた」とある。
- ^ その年の10月に真淵が死去。保己一が教えを受けたのはわずか半年であった。
- ^ 版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させていた。これが現在の原稿用紙の一般様式の元となっている[2]。
- ^ それまでは医者は男性しかなることができなかった。
- ^ やがて昭和2年(1927年)に温故学会会館(東京都渋谷区)を建設。同会館は2000年に登録有形文化財に登録された。
- ^ 現在の「株式会社国書刊行会」(1971年10月創業)とは無関係
- ^ 現在ではその結論は否定されている。
出典
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