1810年代
1810年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 09:13 UTC 版)
詳細は「1810年代」を参照 1810年ナポレオンがハプスブルク皇女マリー・ルイーズと結婚。 ベルリン大学が創設される。 メキシコ独立運動の先駆者ミゲル・イダルゴの「ドローレスの叫び」。 カメハメハ1世がハワイ諸島を統一し、ハワイ王国を建国。 スウェーデン王太子カール・アウグストが事故死、ストックホルムの暴動でフェルセンが惨殺される。 ロシアでミハイル・スペランスキーにより国家評議会が設置される。 1811年イギリス国王ジョージ3世が精神疾患のため、王太子ジョージが摂政となる(摂政時代 - 1820年)。 イギリスで機械打ち壊し運動であるラッダイト運動発生。 ムハンマド・アリーによる「シタデルの虐殺(惨劇)」。 ゴローニン事件。最後の朝鮮通信使が対馬に到着(易地聘礼)。 1812年ナポレオンのロシア遠征。 米英戦争( - 1814年)。 1813年清の北京紫禁城に林清率いる白蓮教系天理教徒が乱入。 ライプツィヒ諸国民戦争でナポレオン敗北。 1814年キール条約でデンマークがノルウェーをスウェーデンに割譲。 フォンテーヌブロー条約によりナポレオンがエルバ島に流される。 ルイ18世が帰還しフランス国王となる(ブルボン復古王政)。 ウィーン会議の開催。 グルカ戦争( - 1816年)。 イギリス人ラッフルズがジャワ島のボロブドゥール遺跡を発見する。 教皇ピウス7世の回勅「ソリチトゥード・オムニウム・エクレジアールム(英語版)」によるイエズス会の復興。 1815年インドネシアのタンボラ山が大噴火。 ワーテルローの戦いでナポレオン敗北、百日天下が終わり、セントヘレナ島に流される。 ウィーン議定書の締結、ウィーン体制( - 1848年)の成立。 イギリスでリヴァプール内閣が穀物法を制定。 1816年前年のタンボラ山噴火の影響で各地が寒冷化し「夏のない年」と呼ばれる。 世界で最初にイギリスが金本位制を導入する。 イギリス全権としてアマーストが清に貿易拡大を要求するが拒絶される。 アルゼンチン(ラプラタ連合)がスペインから独立。以後、中南米諸国の独立が相次ぐ(→ アメリカ大陸諸国の独立年表)。 モーリタニア沖でメデューズ号の座礁事件。 1817年エルギン卿のパルテノン神殿彫刻(エルギン・マーブル)を大英博物館で公開。 アメリカ合衆国大統領にモンローが就任。党派対立がほとんどない「好感情の時代」を迎える。 光格天皇が譲位し、第120代仁孝天皇が即位。 「寛政の遺老」で老中首座の松平信明の死去、水野忠成が老中首座となる セルビア公国がオスマン帝国から独立。 インドのカルカッタから世界初のコレラ大流行が起こる( - 1823年)。 1818年スウェーデンでカール14世が即位し、新王朝ベルナドッテ朝開始。 アーヘン会議で、四国同盟にフランスが加わり五国同盟となることが決定。 エジプトが第一次サウード王国を攻略し滅亡させる。 チリがスペインから独立。 1819年イギリスでピータールーの虐殺事件。 イギリス人ラッフルズによりシンガポール開港。 ドイツ学生運動ブルシェンシャフトを取り締まるカールスバート決議が成立。 アダムズ=オニス条約でアメリカ合衆国がスペインからフロリダを購入。 シク王国のランジート・シングがカシミール地方を占領。 文政の改鋳。
※この「1810年代」の解説は、「19世紀」の解説の一部です。
「1810年代」を含む「19世紀」の記事については、「19世紀」の概要を参照ください。
1810年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 01:57 UTC 版)
「アメリカ合衆国領土の変遷」の記事における「1810年代」の解説
1810年4月 ハワイ諸島はハワイ王国として統一された。 1810年10月27日 ジェームズ・マディソン大統領の声明により、アメリカ合衆国は西フロリダのバトンルージュとモービル地区を併合し、ルイジアナ買収の一部と宣言した。これらはその90日前に西フロリダ共和国の独立を宣言していた。 1812年4月30日 オーリンズ準州の大半が合衆国第18番目の州、ルイジアナ州として加盟した。準州の残り部分(北西端部)はルイジアナ準州に譲られた。 1812年5月12日 連邦政府は西フロリダの一部、モービル地区をミシシッピ準州に併合し、現在のアラバマ州とミシシッピ州を併せたものに相当するようになった。 1812年6月4日 ルイジアナ準州は既に昇格した州と同じ名前を持っていたので、ミズーリ準州と改名された。 1816年12月11日 インディアナ準州のミシガン湖以南の部分が合衆国第19番目の州、インディアナ州として加盟を認められた。準州の残り(ミシガン湖以北部分)は自治的領域ではなくなった。 1817年3月3日 ミシシッピ準州からアラバマ準州が分離した。どちらの準州も現在の州に相当する。 1817年12月10日 ミシシッピ準州は合衆国第20番目の州、ミシシッピ州として加盟した。 1818年10月20日 1818年条約(英語版)によってウッズ湖より西の北緯49度線がイギリス領との境界に設定され、アメリカとイギリスの共同領土としてオレゴン・カントリーが設立された。オレゴン・カントリーは今日のアイダホ州とオレゴン州の大半、ワシントン州全域およびモンタナ州の一部、またカナダのブリティッシュコロンビア州南部に相当する。この条約によって、ミネソタ州北西部、ノースダコタ州北東部およびサウスダコタ州北東部からなるレッド川流域をアメリカ合衆国に移管した。 1818年12月3日 イリノイ準州の南部が合衆国第21番目の州、イリノイ州として加盟した。イリノイ準州の残り部分はミシガン準州と併合されミシガン準州となった。 1819年3月2日 ミズーリ準州の南部がアーカンソー準州(Arkansaw Territory)として編成され、現在のアーカンソー州とオクラホマ州の一部で構成された。名前の綴りが公式に"Arkansas"とされたのは後のことである。 1819年12月14日 アラバマ準州が合衆国第22番目の州、アラバマ州として加盟した。
※この「1810年代」の解説は、「アメリカ合衆国領土の変遷」の解説の一部です。
「1810年代」を含む「アメリカ合衆国領土の変遷」の記事については、「アメリカ合衆国領土の変遷」の概要を参照ください。
- 1810年代のページへのリンク