1220年代
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1220年代(せんにひゃくにじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)1220年から1229年までの10年間を指す十年紀。
- 1 1220年代とは
- 2 1220年代の概要
1220年代
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詳細は「1220年代」を参照 1220年アルプス山脈を南北に縦断するゴッタルド峠(ゴットハルト峠)が開通する。 モンゴルにホラズム朝が滅ぼされる。 慈円が『愚管抄』を著す。 シーインタラーティットがタイのスコータイ朝を建国。 1221年承久の乱。順徳天皇が譲位し、第85代仲恭天皇が即位。後鳥羽上皇が鎌倉の北条義時追討の院宣を下す。 北条政子の演説。瀬田・宇治の防衛を突破し、幕府軍が朝廷軍に勝利。六波羅探題を設置。 後鳥羽上皇が隠岐へ、土御門上皇が阿波へ、順徳上皇が佐渡に流される。 仲恭天皇は廃位され(九条廃帝)、第86代後堀河天皇が践祚(翌1222年に即位)。 モンゴル軍がインダス河畔の戦いに勝利しホラサーン地方やアフガニスタンに進軍。バルフ・ヘラート・メルブ・ニーシャープール・バーミヤーンを占領し破壊する。 チチェン・イッツァのトルテカ・マヤ系支配者に対する反乱によりマヤパンが政治的中心地となる。 1222年ケン・アロクによりジャワでシンガサリ朝が建国される。 アフガニスタンのカラホトで長春真人(丘長春)がチンギス・ハンに会見する。 ハンガリー国王アンドラーシュ2世により「1222年の金印勅書(英語版)」が発布される。 パドヴァ大学創建。 1223年カルカ河畔の戦いで、モンゴル軍がロシア・ポロヴェツ連合軍に最初の勝利。 道元が明全らと入宋する( - 1227年)。 1224年ナポリ大学創建。 北条義時死去、伊賀氏の変、北条泰時が鎌倉幕府第3代執権に就任。 女真文字の信牌(旅券)を持つ女真船が越後国寺泊に漂着する。 南宋の太子趙竑が廃されて追放され(霅川の変(中国語版))、皇帝寧宗が死去の後に理宗が即位する。 1225年アイケ・フォン・レプゴーにより『ザクセンシュピーゲル(ザクセン法鑑)』が編纂される。 エルサレム女王イザベル2世と神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の結婚。 大江広元死去、北条政子死去、評定衆の設置。 1226年藤原頼経が鎌倉幕府第4代将軍となる。 リミニの金印勅書で、ドイツ騎士団のプロイセン征服と領有が認められる。 教皇ホノリウス3世がカルメル会を認可。 1227年六盤山にてチンギス・カン死去。その三日後に興京が開城、モンゴルに西夏が滅ぼされる。 教皇グレゴリウス9世が神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を破門。 ボルンホーフェトの戦い(英語版)でデンマークがホルシュタイン伯とハンザ同盟の連合軍に敗北。 嘉禄の法難。洛中最古の木造寺院である大報恩寺本堂が建立される。 1228年破門された神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が第6回十字軍を起こす(破門十字軍)。 1229年オゴデイがモンゴル帝国第2代皇帝となる。その息子グユクがエミルの所領を与えられる(オゴデイ・ウルス)。 ヤッファならびにテル・エル・アジュル(英語版)協定の締結。これによりアイユーヴ朝のアル・カーミルから皇帝フリードリヒ2世にエルサレムが返還される。 イフリーキーヤ総督アブー・ザカリーヤー1世がムワッヒド朝から独立しハフス朝が成立。 イエメンのマンスール・ウマル1世がアイユーブ朝から独立しラスール朝が成立。 ベーメンの修道院で作成された中世最大の写本「ギガス写本(悪魔の聖書)」に残された最後の年号はこの年のもの。
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