破門十字軍
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「フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「破門十字軍」の解説
「第6回十字軍」も参照 1222年にエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの一行がシチリア王国のブリンディジに上陸する。フリードリヒはブリエンヌの元に使節団を派遣し、彼とともにローマに向かった。ローマでは東方のイスラム教徒への対策が議論され、議論の中でフリードリヒとブリエンヌの娘ヨランド(イザベル)の結婚、結婚後2年以内にフリードリヒが十字軍に参加する取り決めが交わされる。1225年11月9日にフリードリヒは成人したヨランドと再婚し(最初の妻コンスタンツェは1222年に死没していた)、同時にブリエンヌにエルサレム王位とヨランドが有する権利を譲渡させた。 1227年にホノリウス3世が没した時にもフリードリヒの遠征はいまだ実行に移されておらず、教皇グレゴリウス9世は破門をちらつかせ、1228年にフリードリヒは40,000の軍を率いてエルサレムに向かう。道中で軍内に疫病が流行り、フリードリヒ自身も病に罹ったために聖地の土を踏まずに帰国した。この時にフリードリヒはサレルノ大学の衛生学に触れ、中世ヨーロッパでは稀な毎日入浴する衛生観を身に付けた。しかし、グレゴリウス9世は教会権力への脅威となっていたシチリアの力を抑えるため、仮病と判断してフリードリヒを破門する。フリードリヒは破門が解除されないまま第6回十字軍を起こして再びエルサレムに向かい、道中でキプロス王国の政争に介入した。 教皇庁は破門されたフリードリヒが率いる十字軍に批判的であり、現地の将兵はフリードリヒへの協力を拒否した。一方、エルサレムを統治するアイユーブ朝のスルターン・アル=カーミルは、アラビア語を介してイスラム文化に深い関心を抱く、これまでに聖地を侵略したフランク人たちとは大きく異なるフリードリヒに興味を抱いた。 フリードリヒとアル=カーミルは書簡のやり取りによって互いの学識を交換し合い、エルサレム返還の交渉も進められた。フリードリヒは血を流すこともなく、1229年2月11日にアル=カーミルとの間にヤッファ条約を締結し、10年間の期限付きでキリスト教徒にエルサレムが返還された。両方の勢力は宗教的寛容を約束し、また以下の条件が課せられた。 キリスト教徒への聖墳墓教会の返還 イスラム教徒による岩のドームとアル=アクサー・モスクの保有 軍事施設の建設の禁止 しかし、現地の騎士修道会の中でエルサレムの返還を喜んだのはチュートン騎士団だけであり、聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は不快感を示した。エルサレムに入城したフリードリヒはエルサレム王としての戴冠を望むが、彼に同行した司祭たちは破門されたフリードリヒへの戴冠を拒み、1229年3月18日に聖墳墓教会でフリードリヒは自らの手で戴冠した。現地の冷淡な反応を嘆いたフリードリヒは後をチュートン騎士団に任せてシチリアに帰国する。 帰国に際してアッコに移動したフリードリヒは、数日にわたって敵対するテンプル騎士団の本部を包囲した。5月1日にフリードリヒは包囲を解いて密かに帰国し、アッコの住民の一部がフリードリヒの一行に罵声を浴びせた。
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破門十字軍
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フリードリヒ2世は破門を解くべく教皇と交渉を行ったが成功せず、遂に1228年6月に破門のまま十字軍に出発した。しかし破門された皇帝による十字軍に抵抗を感じて、帰国する者も多かった。9月7日にアッコンに到着したが、ここでも聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は従わず、現地諸侯も協力に消極的だった。 しかしフリードリヒ2世には、かねてからアイユーブ朝とのコネクションが有り、出立前には既に予備交渉が行われていた。スルタンのアル=カーミルは当時シリアの兄弟達と争っており、同盟を条件にエルサレムを返還する意向だった。ちょうどこの時期に、対立していた兄弟の1人であるダマスカスの領主が亡くなり、有利な状況になったアル=カーミルとの交渉は難航した。しかし、アル=カーミルはモンゴル帝国の脅威を感じており、ダマスカスも簡単に陥落しなかったため、1229年2月にエルサレム(岩のドームを除く)、ナザレ、シドン、ヤッファ、ベイルートを割譲する条件で10年間の休戦条約を締結した。 平和裡にエルサレムの奪回に成功したが、キリスト教徒側における評価は低かった。「イスラム側がこれほど弱気なら戦闘で勝利すれば、旧エルサレム王国領全てを取り戻せたかも知れない」、「最初から馴れ合いであり、十字軍の目的はイスラム教徒と戦うことである」、「城壁もないエルサレム(1217年にイスラム側により破壊されている)といくつかの都市を返還されても、これを維持するのは難しい」と言った批判が行われた。特にローマ教会側は破門皇帝の業績を認めなかった。 3月にフリードリヒ2世はエルサレムに入城し、戴冠式を行ったが、エルサレム総司教や聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団の総長は出席しなかった。イザベル2世は前年、コンラートを生んだ後に亡くなっているため、王としての正統性も疑わしく、現地諸侯の反応も芳しくなかった。わずかにドイツ騎士団総長などが出席する中で、自らの手でエルサレム王に戴冠した。 間もなく、イタリアにおいて教皇は破門皇帝に対する十字軍を宣言。軍隊を帝国に侵攻させたため、フリードリヒ2世はアッコンなどに代官をおいて5月に帰国の途についた。 第6回十字軍は、第1回とならんでエルサレムの奪還という成果にも関わらず、教会から十字軍と認められることもなく、むしろ十字軍を起こされて終了という皮肉な結末となった。
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