破門十字軍とは? わかりやすく解説

破門十字軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 10:48 UTC 版)

フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「破門十字軍」の解説

第6回十字軍」も参照 1222年エルサレムジャン・ド・ブリエンヌ一行シチリア王国ブリンディジ上陸するフリードリヒブリエンヌ元に使節団派遣し、彼とともにローマ向かったローマで東方イスラム教徒への対策議論され議論の中でフリードリヒブリエンヌの娘ヨランドイザベル)の結婚結婚2年以内フリードリヒ十字軍参加する取り決め交わされる1225年11月9日フリードリヒ成人したヨランド再婚し最初の妻コンスタンツェ1222年死没していた)、同時にブリエンヌエルサレム王位ヨランド有する権利譲渡させた。 1227年ホノリウス3世没した時にフリードリヒ遠征はいまだ実行移されておらず、教皇グレゴリウス9世破門ちらつかせ1228年フリードリヒ40,000の軍を率いてエルサレムに向かう。道中で軍内に疫病流行りフリードリヒ自身も病に罹ったために聖地の土を踏まず帰国した。この時にフリードリヒサレルノ大学衛生学触れ中世ヨーロッパでは稀な毎日入浴する衛生観を身に付けた。しかし、グレゴリウス9世教会権力への脅威となっていたシチリアの力を抑えるため、仮病判断してフリードリヒ破門するフリードリヒ破門解除されないまま第6回十字軍起こして再びエルサレム向かい道中キプロス王国政争介入した教皇庁破門されフリードリヒ率い十字軍批判的であり、現地将兵フリードリヒへの協力拒否した一方エルサレム統治するアイユーブ朝のスルターン・アル=カーミルは、アラビア語を介してイスラム文化に深い関心を抱く、これまで聖地侵略したフランク人たちとは大きく異なフリードリヒ興味抱いたフリードリヒアル=カーミル書簡やり取りによって互い学識交換し合いエルサレム返還交渉進められた。フリードリヒ血を流すともなく1229年2月11日アル=カーミルとの間にヤッファ条約締結し10年間の期限付きキリスト教徒エルサレム返還された。両方勢力宗教的寛容約束し、また以下の条件課せられた。 キリスト教徒への聖墳墓教会返還 イスラム教徒による岩のドームアル=アクサー・モスク保有 軍事施設建設禁止 しかし、現地騎士修道会の中でエルサレム返還喜んだのはチュートン騎士団だけであり、聖ヨハネ騎士団テンプル騎士団不快感示したエルサレム入城したフリードリヒエルサレム王として戴冠を望むが、彼に同行した司祭たちは破門されフリードリヒへの戴冠拒み1229年3月18日聖墳墓教会フリードリヒは自らの手戴冠した現地冷淡な反応嘆いたフリードリヒは後をチュートン騎士団任せてシチリア帰国する帰国に際してアッコ移動したフリードリヒは、数日わたって敵対するテンプル騎士団本部包囲した5月1日フリードリヒ包囲解いて密かに帰国しアッコ住民一部フリードリヒ一行罵声浴びせた

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破門十字軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 06:10 UTC 版)

第6回十字軍」の記事における「破門十字軍」の解説

フリードリヒ2世破門を解くべく教皇交渉行った成功せず遂に1228年6月破門のまま十字軍出発した。しかし破門され皇帝による十字軍抵抗感じて帰国する者も多かった9月7日アッコン到着したが、ここでも聖ヨハネ騎士団テンプル騎士団従わず現地諸侯協力消極的だった。 しかしフリードリヒ2世には、かねてからアイユーブ朝とのコネクション有り出立前には既に予備交渉が行われていた。スルタンアル=カーミル当時シリア兄弟達と争っており、同盟条件エルサレム返還する意向だった。ちょうどこの時期に、対立していた兄弟1人であるダマスカス領主亡くなり有利な状況になったアル=カーミルとの交渉難航した。しかし、アル=カーミルモンゴル帝国脅威感じており、ダマスカス簡単に陥落しなかったため、1229年2月エルサレム岩のドームを除く)、ナザレシドンヤッファベイルート割譲する条件10年間の休戦条約締結した。 平和裡にエルサレム奪回成功したが、キリスト教徒側における評価低かった。「イスラム側がこれほど弱気なら戦闘勝利すれば、旧エルサレム王国全て取り戻せかも知れない」、「最初から馴れ合いであり、十字軍目的イスラム教徒と戦うことである」、「城壁もないエルサレム1217年イスラム側により破壊されている)といくつかの都市返還されても、これを維持するのは難しい」と言った批判が行われた。特にローマ教会側は破門皇帝業績認めなかった。 3月フリードリヒ2世エルサレム入城し戴冠式行ったが、エルサレム総司教や聖ヨハネ騎士団テンプル騎士団総長出席しなかった。イザベル2世前年コンラート生んだ後に亡くなっているため、王として正統性疑わしく現地諸侯反応芳しくなかったわずかにドイツ騎士団総長などが出席する中で、自らの手エルサレム王に戴冠した間もなくイタリアにおいて教皇破門皇帝対す十字軍宣言軍隊帝国侵攻させたため、フリードリヒ2世アッコンなどに代官をおいて5月帰国の途についた第6回十字軍は、第1回ならんでエルサレム奪還という成果にも関わらず教会から十字軍認められるともなく、むしろ十字軍起こされ終了という皮肉な結末となった

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