せいふんぼ‐きょうかい〔‐ケウクワイ〕【聖墳墓教会】
せいふんぼきょうかい 【聖墳墓教会】
聖墳墓教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/30 21:07 UTC 版)
聖墳墓教会(せいふんぼきょうかい)は、エルサレム旧市街(東エルサレム)にある[1]キリストの墓とされる場所に建つ教会堂。ゴルゴタの丘はこの場所にあったとされる。
- ^ アンソニー・テイラー『世界の聖地バイブル : パワースポット&スピリチュアルスポットのガイド決定版』ガイアブックス、産調出版、202ページ、2011年、ISBN 978-4-88282-780-1
- ^ “キリスト教聖地の鍵を管理するのはイスラム教徒だった…多数の宗派が共同使用「聖墳墓教会」の謎を解く”. 産経新聞ニュース. (2017年6月25日)
- 1 聖墳墓教会とは
- 2 聖墳墓教会の概要
- 3 近代以降の歴史と行事
聖墳墓教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:41 UTC 版)
ゴルゴタを城内の聖墳墓教会の境内にあるとする説がある。132年から135年まで続いたバル・コクバの乱の後、ハドリアヌス帝によってエルサレムがアエリア・カピトリナとして再建された際にこの場所にウェヌスを祀る神殿が建てられていたが、現地のキリスト教徒はその神殿の境内にはイエスが磔にされた場所と葬られた墓があると口伝で伝えた。326年にコンスタンティヌス帝の母ヘレナがアエリア(エルサレム)を訪れた時、神殿敷地でイエスの墓に比定される墳墓とその磔刑に使われた聖十字架と聖釘などの聖遺物を発見し、そのきっかけでこの地に教会を建てたと言われている。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 4世紀当時の聖墳墓教会(復元図) 平面図 発掘調査によって、この周辺は紀元前8世紀から紀元前1世紀まで石灰岩の石切場として稼働していたことが明らかになった。1世紀に入ると廃坑となって、岩壁に数基の墓が掘られ、耕土が敷かれ畑地として利用されたと見られる。先述の通りユダヤの伝統では城内に死者を葬ることが禁じられていたため、墓地となったこの石切場は元々エルサレムの街の外にあり、後に城壁が拡大された影響で街の中に位置することになったと推測される。この考古学的知見は、イエスが埋蔵された墓は城外の園にあるという『ヨハネによる福音書』の記述と一致する。 なお「カルワリオの岩」が現在の形に整えられた時期についてはいろんな説があり、現地が石切場であった時代、もしくはウェヌス神殿が建立された時、あるいは教会が建てられた時等が挙げられている。また、元々は近辺の墓に付属する慰霊塔(ネフェシュ)の跡とする考えもある。いずれにせよ、岩の頂上はあまりにも狭く、その傾斜が険しすぎて簡単に登れないため、イエスと彼と共に処刑された2人の犯罪人の十字架がここに立てられたとするのは無理があると指摘されている。そのため、聖墳墓教会とその周辺をゴルゴタと認める学者の中でもイエスが十字架に磔にされた場所はこの「カルワリオの岩」の上ではなく別の所にあると主張する者もいる。考古学者のジョアン・E・テイラー(2011年)の説では、イエスの十字架が立てられた所は「カルワリオの岩」の南約200メートルの城門と街道に近い位置にあるとされる。一方で、同じ考古学者のシモン・ギブソン(2009年)はイエスが岩のすぐ近く(岩から約20メートルの位置、聖墳墓教会内のバシリカの後陣に相当する)にて処刑されたとしている。
※この「聖墳墓教会」の解説は、「ゴルゴタの丘」の解説の一部です。
「聖墳墓教会」を含む「ゴルゴタの丘」の記事については、「ゴルゴタの丘」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 聖墳墓教会のページへのリンク