クリミア戦争とは? わかりやすく解説

クリミア戦争

読み方:クリミアせんそうクリム戦争
英語:Crimean War

19世紀半ばクリミア半島などを主戦場として行われたトルコオスマン帝国)・イギリス・フランス・サルディニアの連合軍帝政ロシアとの戦争激戦知られるセヴァストポリの戦い露軍陥落ロシア敗北をもって決着した

クリミア戦争は、極めて大雑把に言ってしまえば不凍港獲得版図拡大目指し南進するロシアと、衰退しつつあった巨大帝国オスマン・トルコとの激突であったロシア拡大強化阻止したいイギリスフランストルコ側について連合軍結成した戦場クリミア半島中心に黒海北岸などにも及んだ

クリミア戦争はやがてロシア軍主力艦隊である「黒海艦隊」の拠点がある要塞都市セヴァストポリ集中した攻防戦長期にわたり、両軍おびただしい死者出た死者の数両軍10万超え総勢20万人命を落としたとも言われている。他方ナイチンゲール戦地看護にあたり衛生状況劇的改善負傷者死亡率大幅引き下げ実現し後世看護在り方影響与えた

クリミア半島18世紀後半時点ロシア帝国となっており、クリミア戦争の発生時も、その終結後も、ロシア帝国であったソビエト連邦成立後ソ連となった半島要衝セヴァストポリ第二次世界大戦における独ソ戦戦場にもなっている。

クリミア‐せんそう〔‐センサウ〕【クリミア戦争】

読み方:くりみあせんそう

1853〜56年ロシアと、トルコ・イギリス・フランス・サルデーニャ連合軍との間で起きた戦争聖地エルサレム管理権トルコ要求して南下図ったロシア対し阻止しようとするイギリスなどクリムクリミア半島出兵して参戦ロシア敗北した


クリミア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/17 08:46 UTC 版)

クリミア戦争[1]

クリミア戦争中、セヴァストポリ近郊に設置された塹壕と連合軍の兵士
1853年10月16日 - 1856年3月30日
場所 クリミア半島北コーカサスバルカン半島黒海バルト海白海極東
結果 連合軍の勝利、ロシアの敗北[1]
衝突した勢力
ロシア帝国
ギリシャ王国[注釈 1]
指揮官
戦力
合計:889,000人[2] - 1,774,872人[3]
  • 合計:673,900人
  • 235,568人[4]
  • 309,268人[2]
  • 97,864人[2]
  • 21,000人[2]
被害者数
130,000人戦死[1] 70,000人戦死[1]

クリミア戦争(クリミアせんそう、英語: Crimean War)は、1853年から1856年にかけてロシア帝国と、オスマン帝国フランスイギリスサルデーニャの連合軍との間で行われた戦争である。戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまでおよんだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。連合軍がロシア帝国に勝利してパリ条約が締結され、ロシアが進めていた南下政策は頓挫した[1]

この戦争の敗北により後進性が露呈したロシアは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失った。一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まり、その影響は中国日本にまで波及した。

背景

ナショナリズムの台頭

ナポレオン以後のヨーロッパ社会に比較的長期の安定をもたらしたウィーン体制だったが、19世紀中頃になると各国の利害関係の複雑化などから揺らぎ始めた。やがて広大な領地に異なる文化や宗教を唱える民族を多数抱えるオスマン帝国のような多民族国家では、被支配民族を中心にナショナリズムが台頭するようになった。

中でもボスニアヘルツェゴヴィナは、民族的にはスラヴ系でも宗教的な支配層はムスリムであり、そして被支配層はキリスト教徒が多数だった。また工業化がほとんど進んでいないこれらの地域では、人口の大多数が封建領主に搾取される貧農であったため、たびたびセルビアモンテネグロの反オスマン運動の宣伝に使われた。

オスマン帝国は、近代化よりもまずはこの地方の安定化を優先させる事を意図して、キリスト教徒の被支配層にある程度の平等を宣言して税制の公正化を図るなど、問題の解決に奔走していた。しかし1848年からの一連の革命を機に起こした運動が失敗したため、農奴状態の農民がさらに悲惨な状況に追い込まれることを危惧したオスマン帝国は、不安定ではあるが再び支配権が確立された後に、この地域への農業改革(自作農化)を求めた。支配層のムスリム貴族たちがこれに反対したため、オスマン帝国は1850年にドナウ方面軍司令官オメル・パシャを派遣した。反対派をサラエヴォから追い出し一時的に秩序の回復に成功するが、蜂起した農民の武装解除には至らなかった。

ロシアとオスマン帝国の直接の対立の発端となったのは、オスマン帝国が支配していたエルサレムをめぐる聖地管理問題であった。フランスのナポレオン3世は個人的な名声を得るため、国内のカトリック教徒におもねって聖地管理権を獲得した。これに正教会を国教とするロシア皇帝ニコライ1世が反発し、ロシアは正教徒の保護を口実にしてオスマン帝国全土に政治干渉をおこなう。これがモルダヴィアワラキアへの兵力投入につながっていった。

諸国の策略とイギリス外交の不調

1852年モンテネグロ公ダニーロ1世英語版は、ロシアとオーストリアの賛同の下に制定した新憲法にオスマン帝国が反対したことを理由に挙兵し、同年にヘルツェゴヴィナ東部で発生した農民反乱を支援してオスマン帝国軍を攻撃し始めた。地の利があるモンテネグロがヘルツェゴヴィナから越境攻撃を繰り返すゲリラ戦を展開する一方、これに苦戦を強いられたオスマン帝国側は、オメル=パシャトルコ語版英語版によってスクタリから武器を買い付けてボスニア人ムスリムに流すことによって対抗した。こうして戦況は次第に泥沼化していった。

モンテネグロはセルビアからの支援を受けて善戦するも、兵力の上で圧倒的に不利なため、1852年12月にオスマン帝国がアドリア海に艦隊を派遣すると、ロシアからの助言の下に和平交渉の準備に入り、1853年1月にダニーロ1世の叔父にあたるカラジョルジェ・ペトロヴィチ (Karađorđe Petrovićが使者としてサンクトペテルブルクに赴いて、ロシアにオスマン帝国との仲介を依頼した。

一方で、戦線の拡大を望まないオーストリアもオスマン帝国との講和を打診するものの、2月からの交渉においてオスマン帝国とモンテネグロとの双方が講和に合意するには至らなかった。これに加えてアルバニアで、フランスの支援を受けたオスマン帝国軍の前にモンテネグロが大敗北を喫した。

モンテネグロがこのような危機的状況に陥ったことを受けて、汎スラヴ主義を掲げる体裁上バルカン半島を無視できなくなったロシアは、プロイセンを仲介としてオスマン帝国に使節団を送って双方に停戦を合意させた。この時点でロシア皇帝ニコライ1世はこの問題に関して、オスマン帝国と対立する側に立てば必ず英国やフランスとも対立することになるにせよ、オスマン帝国領を分割することで妥協できると踏んでいた。この認識がロシアの強気の行動を助長することにつながった。しかし外相カール・ロベルト・ネッセルローデが苦言を呈したように、利害関係が複雑化してしまっている以上、いたずらに各国の疑惑を呼ぶような行為は賢明でなかった。

ニコライ1世としては、イギリスについては首相が第2次ピール政権で外相として穏健外交を展開したロシア寄りのアバディーン伯だったので、関係は悪化しないだろうと踏んでいた。一方のオスマン皇帝アブデュルメジト1世は第二次シリア戦争(第二次エジプト・オスマン帝国戦争)で味方してくれた当時の外相だったパーマストン子爵が内相としてアバディーン政権の閣内にいる限り、イギリスは援護射撃をしてくれるだろうという勝手な期待を抱いていた。

アバディーン内閣は連立政権であり、首相を支持する一派はロシアに同情的だったが、クラレンドン外相やパーマストン内相はフランスと組んでロシアと対決すべしと考えており、外交方針が定まっていなかった。イギリスはロシアとオスマン帝国、オスマン帝国を支援するフランスといった関係国を仲裁しうる大国だったが、閣内の足並みの乱れから一貫した外交政策がとれずにいた。さらに選挙法を巡っても政権内部が分裂しており、紛争の仲介役をできる状態ではなかった。このため、ロシアとオスマン帝国の双方がイギリスの支援に勝手な期待を抱いたまま、紛争が拡大していった。

開戦へ

1853年2月末にロシアはオスマン帝国に特使を派遣するが、選ばれたのは経験豊かな外交官ミハイル・オルロフではなくオスマン帝国嫌いの軍人アレクサンドル・メンシコフだったため、不安になった当時のロシアの宰相ネッセルローデは方針はあくまでも不戦であると釘を刺した。

3月にイスタンブール入りしたメンシコフは、まずオスマン帝国最大の債権国だったフランスの干渉を退けることに努め、交渉相手がフランス寄りのムスタファ・レシト・パシャである限り交渉には応じられないと頑なに拒否し続けた。そのため、オスマン帝国側は交渉の担当者を何度も変更せざるを得なくなった。交渉は当初から難航が予想されたが、4月にオスマン帝国が領内の正教会信者、つまりスラヴ系民族の生命と財産を保証するのであれば、ロシアは国際的な危機からの安全を保障するという合意が成立した。

ところが、この合意の中にはスラヴ系商人に対する特権の付与なども含まれていたため、完全に蔑ろにされたフランスが猛烈に抗議し、様々な妨害工作を行った。エルサレムを巡る聖地管理権問題はこの一環といわれている。またこの時期に、ロシアがセヴァストポリ黒海艦隊に戦闘準備をさせ、オデッサで陸軍の大部隊が編成され、海軍のコルニーロフ大佐が突然ギリシャに派遣されたという情報がもたらされた。このため、駐イスタンブール英国大使ストラトフォード・カニングはフランスと組んでスルタン・アブデュルメジト1世に様々な圧力をかけ、ついには金角湾に軍艦を並べて砲撃を行うなど強引な手段に出た。これによってオスマン帝国はロシアの提案を断ることになった。

こうして4か月におよぶ交渉は失敗に終わり、6月にメンシコフが帰国すると同時にロシアとオスマン帝国は国交を断絶した。この間、オーストリア外相プオルを中心としてウィーンで開かれた国際会議も、議定書を作成したものの最終的に失敗に終わった。この4か月後の10月に両国は開戦した。

戦闘の経緯

バルカンでの戦闘

1853年7月、ロシアはオスマン帝国の宗主権の下で自治を認められていたモルダヴィア、ワラキア(現在のモルドヴァルーマニアの一部)に進軍した。あくまでも解放を目的としていたことからロシア側は宣戦布告なしに行ったが、戦闘になることを回避したいオスマン帝国側はドナウ川南岸に軍を進めたものの、再三にわたって撤退勧告を繰り返すにとどめた。しかし、9月に最後通牒も無視されたことから、オスマン帝国軍は10月に宣戦布告なしにドナウを渡河し、ブカレスト郊外の数か所の前哨拠点を攻撃したことをきっかけに開戦となった。

装備で勝っていたロシア軍は、砲兵部隊をドナウ河岸に集中させてオスマン帝国軍の河川艦隊を破ると、勢力を盛り返してドナウを越えて南下した。更にギリシャ義勇兵が北上し、手薄になっていたオスマン帝国領内のマケドニアブルガリアでロシアの援助を受けた反オスマン帝国組織が叛乱を煽動したため、オスマン帝国軍はバルカン半島で挟撃される形に追い込まれた。この状況に慌てたイギリスとフランスはギリシャに撤退を求めるが、中央政府の権威が大きくないギリシャでは戦線に身を投じる義勇兵が後を絶たなかった。

遂にフランスは巡洋艦を派遣して、ギリシャ義勇兵への武器を積んだ輸送船をテッサロニキで撃沈し、イギリスもアテネの港湾ピレウスを封鎖して圧力をかけたため、ギリシャは義勇兵の援助を打ち切らざるをえなくなった。これにより反オスマン帝国を掲げた叛乱は各地で鎮圧され、特にロシアが力を注いだブルガリアの反対派組織は徹底的な弾圧を受けて壊滅した。盛り返したオスマン帝国軍がロシア軍をドナウ以北まで押し戻すが、両軍ともに決定力に欠け戦線は膠着状態に陥った。

クリミアでの戦闘とイギリス首相の交代

セバストポリの陥落

ロシアの過大な要求に不満と懸念を抱いたフランスとイギリスだったが、本格的に参戦するつもりはなかった。ところが1853年11月、黒海南岸の港湾都市シノープで停泊中だったオスマン帝国艦隊が少数のロシア黒海艦隊に奇襲され、艦船のみならず港湾施設まで徹底的に破壊されるというシノープの海戦が起きたため、状況は一変した。

これは黒海艦隊の偵察に気づいていながら、イスタンブールに援軍を要請する以外に何も行わなかったオスマン帝国側の明らかなミスだったが、あまりにも一方的な攻撃だったため、各国のメディアはこれを“シノープの虐殺”と報道した。これにより、イギリスでは世論が急速に対ロシア強硬論へと傾き、フランスとともにオスマン帝国と同盟を結んで1854年3月28日、ロシアに宣戦布告した。イギリスがヨーロッパへの大規模な遠征軍を編成したのはナポレオン戦争から第一次世界大戦までの100年の間でこの1度だけだった。

当初、同盟軍は軍隊を黒海西岸のヴァルナ(現在のブルガリア東部)に上陸させてオデッサの攻略を目指したが、突如としてオーストリアが国境線に部隊を配置して同盟軍のバルカン山脈以北への進軍を阻止したため、攻撃目標はロシア黒海艦隊の基地があるクリミア半島の要衝セバストポリへの変更を余儀なくされた。

しかし、主力のイギリス・フランス軍ともに現地の事情に疎く、クリミア半島に部隊を移動させた直後から現地の民兵やコサックから昼夜を問わず奇襲を受け、フランス軍にいたっては黒海特有の変わりやすい天候について調べていなかったため、停泊中の艦隊が嵐に巻き込まれ、戦う前からその大半を失っていた(この後、フランスでは気象に関する研究が盛んになる)。

ロシア軍は指揮の面で不備が多く、アルマの戦いロシア語版英語版では地の利があるにもかかわらず、実戦経験豊富なフランス外人部隊と戦闘犬を擁するスコットランド連隊の前に敗れてセバストポリへの進軍を許してしまった。一方、同盟軍は情報の重要性に気を配らなかったことから、フランス語の堪能なロシア人士官が化けた偽指揮官たちによる攪乱工作により、バラクラヴァの戦いインケルマンの戦いロシア語版英語版では辛うじてロシア軍を退けるも被害が著しく、セバストポリを前にして立ち往生する羽目になった。ロシア軍は英仏艦隊から直接セバストポリを砲撃されないよう湾内に黒海艦隊を自沈させ、陸上でも防塁を設けて街全体を要塞化した。そのため同盟軍は塹壕を掘って包囲戦を展開するしかなく、イギリス軍は化学兵器(一説では亜硫酸ガスではないかといわれている)まで使用したが、予想外の長期化により病死者が戦死者を上回り、戦争を主導したイギリス国内でも厭戦ムードが漂っていた。最終的にサルデーニャ王国ピエモンテに駐屯する精鋭15000人を派遣して同盟軍に与したことにより、街は3日におよぶ総攻撃の末にナヒーモフコルニーロフも戦死し、1854年9月28日から始まったセバストポリ包囲戦: Sivastopol Kuşatması-セバストポリ攻囲戦、: Оборона Севастополя-セバストポリ防衛戦)は1855年9月11日の陥落によって決着した。

しかしこの時点でイギリスは戦費によって財政が破綻し、アバディーン内閣は国民の支持を失っていた。政権を支える庶民院院内総務ジョン・ラッセル卿の辞任が引き金となって内閣は総辞職し、外相時代に辣腕外交ぶりを発揮していたパーマストン内相が後を継いでいた。

終戦へ

セバストポリ陥落直後、ザカフカースの要衝カルス要塞がロシア軍に降伏し、戦勝国と呼べる国は事実上なくなった。パーマストン首相はもう少し戦争を継続してイギリスに有利な状況で終わらせたかったが、フランスのナポレオン3世は世論を受けてこれ以上の戦闘を望まなかった。フランスの陸軍を頼りにしていたイギリスは、単独ではロシアと戦えなかった。両陣営とも、これ以上の戦闘継続は困難と判断した。

時を同じくしてロシアではニコライ1世が死去し、新たにアレクサンドル2世が即位した。アレクサンドル2世は、かつてのオスマン帝国の全権特使でありロシア軍の総司令官であるメンシコフを罷免した。こうして同盟国側と和平交渉が進められていった。もっとも、明確な戦勝国のない状況で始められたパリでの講和会議は、戦争終結に貢献したということで発言権を増したサルデーニャ王国のカミッロ・カヴールのロビー活動によりハプスブルク批判に終始し、結局は大まかなところで戦前の大国間の立場を再確認するにとどまり、開戦当初に掲げられたポーランドの解放やバルカン諸国の安全保障などは完全に無視された。

こうして1856年3月30日にオーストリア帝国とプロイセン王国の立ち会いの下で、パリ条約が成立した。多くの歴史学者が認めているように、この戦争で産業革命を経験したイギリスとフランス、産業革命を経験していないロシアの国力の差が歴然と証明された。建艦技術、武器弾薬、輸送手段のどれをとっても、ロシアはイギリスとフランスよりもはるかに遅れをとっていたのである。

バルト海での戦闘

クリミア戦争は、北欧においても転換期となった。スウェーデンはロシアからのフィンランド奪回を狙い、参戦を計画した。これはナポレオン戦争以後のスウェーデンの武装中立主義を覆すものだった。イギリス、フランスもスウェーデンの政策を支持し、バルト海に艦隊を派遣した。1854年に英仏艦隊はバルト海に侵攻し、フィンランド沿岸を制圧する。

しかしスウェーデン議会は戦争への介入に消極的で、当初は中立を宣言した。この中立は英仏にとって有益であり、スウェーデン領であるゴットランドの海港を軍事基地として利用することが出来た。英仏艦隊はフィンランド領となっていたオーランド諸島に迫っていたため、フランスはオーランド諸島の占領をスウェーデンに打診した。スウェーデン王オスカル1世は、ロシアが機雷を使用したことを憂慮し慎重な姿勢を取ったため、オーランド諸島奪回の好機は失われてしまった。1855年に入ると、クリミアでの戦闘がロシアの敗色濃厚となり、スウェーデンは直接参戦の意思を露にする。

しかし、スウェーデンの参戦は時機を逸していた。セバストポリの陥落とスウェーデンの参戦はロシアに和平を促すきっかけとなり、英仏艦隊はバルト海から撤退した。結局スウェーデンは何の利益も得られず、戦争は終結した。なおスウェーデン人が主体を占めるオーランド諸島は、列強諸国によるパリ条約において黒海同様に非武装地帯とすることで合意を得たが、フィンランド独立後に帰属問題で揺れ、結局1921年にフィンランドの自治領になることが決定された。

太平洋での戦闘と日本への影響

太平洋側の極東ロシアにも戦争は波及した。フランス海軍とイギリス海軍の連合は1854年8月末、カムチャツカ半島のロシアの港湾・要塞であるペトロパブロフスク・カムチャツキー攻略を目論んだ(ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦)。英仏連合軍は盛んに砲撃を行い、同年9月に上陸したが、陸戦で大きな犠牲を出して撤退した。英仏連合は兵力を増援したが、再度攻撃をかけた時にはロシア軍は撤退した後だった。ロシアの守備隊は、1855年の初頭に雪の中を脱出した。

この戦いと並行して、エフィム・プチャーチン海軍中将が江戸幕府との開国交渉にあたっていた。プチャーチンは開戦前にロシア本国を出発し、1853年8月に長崎に到着。外交交渉に着手していたが、交渉が長引く中で英仏両国との開戦の情報に接し、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフとも協議の上日本との交渉を続行。英仏の艦隊との遭遇・交戦の危険を控え、1854年12月には安政東海地震により乗艦ディアナ号を喪失するも、1855年1月に日露和親条約の締結に成功している。

ディアナ号

また、プチャーチンが長崎に入港中との情報を得た英国東インド・中国艦隊司令ジェームズ・スターリングは、プチャーチンの捕捉を口実に長崎に侵入した。到着時にはロシア艦隊は既に長崎にはいなかったが、英国とロシアが戦争中であること、ロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることを警告し、幕府に対して局外中立を求めた。スターリングは外交交渉を行う権利は有しておらず、かつ本国からの指示も受けていなかったが、長崎奉行水野忠徳はイギリスの軍事力への恐れから条約締結を提案し、1854年10月14日日英和親条約が調印された。日本の北方でロシア海軍との交戦を行う場合、日本での補給が可能になることは大きなメリットであり、本国も追認した。

新興国で大きな海軍も有していないアメリカが、この時期ペリー提督を日本に派遣して砲艦外交を展開できたのは、この戦争によって欧州列強の関心が日本を含めた東アジア地域にまでおよばなかったことも理由の一つである。

なおこの戦争でフランスでは、政府の命令を受けてパリ天文台台長の天文学者ユルバン・ルヴェリエが暴風雨の研究を行い、これが今日の天気予報という学問のジャンルの起源になった。

戦争に関わった人物

クリミア戦争を題材とした作品

映画

歴史ゲーム

  • Alma (GDW)1978 、GDW社の120シリーズ、後にコマンド・マガジン第38号にて『アルマの戦い ~The Battle of the Alma~』として日本語化、国際通信社
  • Sevastopol (SPI)1978 、包囲戦を題材にしたクワドリゲーム「Art of Siege」の一作品
  • Crimean War Battles (SPI)1978 、SPI社のクワドリゲームで、アルマ、チェルネイヤ、バラクラーヴァ、インケルマンから成る。後にS&T193号でアルマとチェルネイヤのみ再版された。
  • Crimean War (DG)1998 、Strategy and Tactics #193、ジョセフ・ミランダがデザインしたキャンペーン級ゲーム

脚注

注釈
  1. ^ 1854年まで
  2. ^ a b 1854年以降
  3. ^ 1855年以降
出典
  1. ^ a b c d e クリミア戦争”. コトバンク. 2024年3月2日閲覧。
  2. ^ a b c d Clodfelter 2017, p. 180.
  3. ^ Brooks, E. Willis (1984). “Reform in the Russian Army, 1856-1861”. Slavic Review 43 (1): 63–82. doi:10.2307/2498735. JSTOR 2498735. 
  4. ^ Badem 2010, p. 280.

参考資料

  • オーランドー・ファイジズ 『クリミア戦争(上下)』染谷徹訳、白水社 2015年、新版2023年
  • 君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交・パーマストンと会議外交の時代』 有斐閣 2006年
  • 『コンサイス人名事典』三省堂
  • 『別冊 歴史読本 特別増刊 総集編 「世界の戦史」』新人物往来社
  • 『詳説 世界史研究』山川出版社 2008年

関連項目


クリミア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:20 UTC 版)

東方問題」の記事における「クリミア戦争」の解説

詳細は「クリミア戦争」を参照 1850年代些細な宗教論争によって、新たな対立生じた18世紀結ばれた協定によればロシアオスマン帝国内の正教徒保護者であった同様にフランスオスマン帝国内のカトリック教徒保護する権利有していた。そのため数年間にわたり生誕教会聖墳墓教会管理巡って正教徒カトリック教徒の間で論争おこなわれていた。1850年代初めに両者オスマン皇帝判定求めた結果1853年オスマン皇帝正教側の猛烈な反対押し切ってカトリック教徒側を支持する判定下した他方1852年独立宣言したモンテネグロ公国新憲法の制定を巡る対立からオスマン帝国開戦すると、ここでも正教徒保護名目としたロシア帝国オスマン帝国との対立生じたニコライ1世メンシコフ公爵特命与えてオスマン帝国政府急派し、最初に帝国内の全てのキリスト教徒教会保護する」ことを約束させる条約締結した。さらにメンシコフは「ロシアオスマン皇帝キリスト教徒保護が不十分と判断した際はオスマン帝国干渉することを認める」という新し条約締結しようと試みたが、その要求知ったイギリス外交官ストラットフォード・カニング(初代ストラットフォード子爵)が巧み外交展開し、この条約オスマン帝国独立を脅かすと説得したことにより、オスマン皇帝条約拒絶したメンシコフ外交交渉失敗終わったことを知ったニコライ1世は、聖墳墓教会問題持ち出してモルダヴィアワラキア進軍したニコライ1世は、1848年の革命鎮圧協力したのだから、ロシア隣接するオスマン帝国支配下の2,3の州を併合することにヨーロッパ諸国反対するまい考えていた。 しかし、ロシアモルダヴィアワラキア派兵すると、オスマン帝国保全を望むイギリスダーダネルス海峡艦隊派遣した。同海峡フランス艦隊によりロシア封鎖されことなくオスマン帝国保持されていた。ヨーロッパ勢力当時外交的な解決望んでいたので、イギリス・フランス・オーストリア・プロイセン4国はウィーンロシアオスマン帝国双方受容できる思われる妥協案(ウィーン議定書)を示したロシアはこれを承認したが、オスマン皇帝アブデュルメジト1世は、妥協案の簡潔すぎる文言多く拡大解釈許容する考えて拒絶した。4国はオスマン皇帝意向受けて修正案提示したが、今度ロシア側から拒絶にあった。これを受けてイギリスフランス外交交渉うち切り一方オーストリアとプロイセン依然として外交努力継続しようとした結局オスマン帝国ドナウ川付近ロシア軍攻撃し両国交戦したロシア軍は、1853年11月30日シノープの海戦オスマン帝国艦隊壊滅させると、制海権握って補給確保し急速に南下したオスマン帝国艦隊壊滅ロシアの急拡大イギリスフランス脅威を抱かせ、フランスオスマン帝国擁護して介入する姿勢見せた1854年イギリスフランスロシアモルダヴィアワラキアから退くよう最後通牒突きつけ、これが無視された後に宣戦布告したニコライ1世は、1848年の革命鎮圧協力した経緯から、オーストリア少なくとも中立を守るだろうと期待していた。しかしオーストリアロシア行動脅威感じており、ロシア軍撤退要求するイギリスフランス支持したロシア宣戦することはなかったものの、中立を守ることは約束しなかった。1854年の夏に再びオーストリア撤退要求すると、オーストリア介入恐れたロシアは、これに応じて撤退したロシアドナウ川付近から兵を退いたので、戦争は元々の理由失った。しかし、オスマン帝国対すロシアの脅威取り除き東方問題」を決着させるために、イギリスフランス戦争続行しロシア次の要求提示したドナウ川付近公国対す保護放棄 帝国内の正教徒保護理由オスマン帝国介入することの放棄海峡問題」について1841年条約再確認されること ドナウ川通行権全ての国に認められると しかしニコライ1世はこの「4項目」を拒否したので、戦争続行したニコライ1世が死ぬと、後継したアレクサンドル2世和平交渉開始し講和条約パリ条約締結したパリ条約では「4項目」の主旨厳守され、ドナウ川沿岸公国対すロシア特権列強譲渡され黒海沿岸にはオスマン帝国ロシア一切海軍施設および海事関わる軍需工場設けないことが約束された。これにより、オスマン帝国対すロシアの脅威大きく減じた。さらに列強により、オスマン帝国独立および領土保全尊重することが約束された。 クリミア戦争前後各国軍事支出単位100万ポンド) 1852 1853 1854 1855 1856 ロシア 15.6 19.9 31.3 39.8 37.9 フランス 17.2 17.5 30.3 43.8 36.3 イギリス 10.1 9.1 76.3 36.5 32.3 オスマン 2.8 ? ? 3.0 ? サルデーニャ 1.4 1.4 1.4 2.2 2.5 クリミア戦争は「東方問題」が各国政治に特に大きな影響与えた事例。主要参戦国であるイギリス・フランス・ロシアの軍事費のきなみ増大しているが、イギリスの軍事費の異常な増大が特に注目される。この大規模な戦争での敗北によってロシア影響力著しく低下し1870年代にいたるまで「東方問題」は安定した。(出典:『ミシガン大学政治・社会研究インター・ユニヴァーシティー・コンソーシアム』) パリ条約体制1871年フランスプロイセン交戦した普仏戦争まで維持された。普仏戦争結果ドイツプロイセン中心に強力なドイツ帝国形成しフランス打撃を受け、1852年以来帝政をしいていたナポレオン3世追放されて現在の共和制フランス共和国となったイギリス友好関係維持したナポレオン3世治世の間、フランスロシアとは「東方問題」をめぐる対立関係にあったが、パリ条約以降オスマン帝国へのロシア干渉重大問題とならなかったこともあり、共和制になったフランスロシア接近した。さらにロシアは、ドイツ帝国ビスマルク支持得てパリ条約における黒海非武装化条項非難したイギリス反対したが、単独ではこのような動き押さえ込むができなかったため、ロシア黒海艦隊再建することに成功した

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