クリミア戦争
英語:Crimean War
19世紀半ば、クリミア半島などを主戦場として行われた、トルコ(オスマン帝国)・イギリス・フランス・サルディニアの連合軍と帝政ロシアとの戦争。激戦で知られる。セヴァストポリの戦いで露軍の陥落、ロシアの敗北をもって決着した。
クリミア戦争は、極めて大雑把に言ってしまえば、不凍港の獲得と版図の拡大を目指し南進するロシアと、衰退しつつあった巨大帝国オスマン・トルコとの激突であった。ロシアの拡大・強化を阻止したいイギリスやフランスがトルコ側について連合軍を結成した。戦場はクリミア半島を中心に黒海北岸などにも及んだ。
クリミア戦争はやがてロシア軍の主力艦隊である「黒海艦隊」の拠点がある要塞都市セヴァストポリに集中した。攻防戦は長期にわたり、両軍におびただしい死者が出た。死者の数は両軍各10万を超え、総勢20万人が命を落としたとも言われている。他方、ナイチンゲールが戦地で看護にあたり衛生状況の劇的改善と負傷者の死亡率を大幅引き下げを実現し、後世の看護の在り方に影響を与えた。
クリミア半島は18世紀後半の時点でロシア帝国領となっており、クリミア戦争の発生時も、その終結後も、ロシア帝国領であった。ソビエト連邦の成立後はソ連領となった。半島の要衝セヴァストポリは第二次世界大戦における独ソ戦の戦場にもなっている。
クリミア‐せんそう〔‐センサウ〕【クリミア戦争】
クリミア戦争
クリミア戦争
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詳細は「クリミア戦争」を参照 1850年代に些細な宗教論争によって、新たな対立が生じた。18世紀に結ばれた協定によれば、ロシアがオスマン帝国内の正教徒の保護者であったと同様に、フランスもオスマン帝国内のカトリック教徒を保護する権利を有していた。そのため数年間にわたり生誕教会と聖墳墓教会の管理を巡って正教徒とカトリック教徒の間で論争がおこなわれていた。1850年代の初めに両者はオスマン皇帝に判定を求めた結果、1853年オスマン皇帝は正教側の猛烈な反対を押し切ってカトリック教徒側を支持する判定を下した。 他方、1852年に独立を宣言したモンテネグロ公国が新憲法の制定を巡る対立からオスマン帝国と開戦すると、ここでも正教徒の保護を名目としたロシア帝国とオスマン帝国との対立が生じた。 ニコライ1世はメンシコフ公爵に特命を与えてオスマン帝国政府へ急派し、最初に「帝国内の全てのキリスト教徒と教会を保護する」ことを約束させる条約を締結した。さらにメンシコフは「ロシアがオスマン皇帝のキリスト教徒保護が不十分と判断した際はオスマン帝国に干渉することを認める」という新しい条約を締結しようと試みたが、その要求を知ったイギリスの外交官ストラットフォード・カニング(初代ストラットフォード子爵)が巧みな外交を展開し、この条約がオスマン帝国の独立を脅かすと説得したことにより、オスマン皇帝は条約を拒絶した。 メンシコフの外交交渉が失敗に終わったことを知ったニコライ1世は、聖墳墓教会の問題を持ち出して、モルダヴィアとワラキアに進軍した。ニコライ1世は、1848年の革命の鎮圧に協力したのだから、ロシアが隣接するオスマン帝国支配下の2,3の州を併合することにヨーロッパ諸国は反対するまいと考えていた。 しかし、ロシアがモルダヴィアとワラキアへ派兵すると、オスマン帝国の保全を望むイギリスはダーダネルス海峡へ艦隊を派遣した。同海峡はフランスの艦隊によりロシアに封鎖されることなくオスマン帝国に保持されていた。ヨーロッパの勢力は当時外交的な解決を望んでいたので、イギリス・フランス・オーストリア・プロイセン4国はウィーンでロシアとオスマン帝国双方が受容できると思われる妥協案(ウィーン議定書)を示した。ロシアはこれを承認したが、オスマン皇帝アブデュルメジト1世は、妥協案の簡潔すぎる文言が多くの拡大解釈を許容すると考えて拒絶した。4国はオスマン皇帝の意向を受けて修正案を提示したが、今度はロシア側からの拒絶にあった。これを受けて、イギリスとフランスは外交交渉をうち切り、一方、オーストリアとプロイセンは依然として外交努力を継続しようとした。結局、オスマン帝国はドナウ川付近でロシア軍を攻撃し、両国は交戦した。 ロシア軍は、1853年11月30日シノープの海戦でオスマン帝国艦隊を壊滅させると、制海権を握って補給を確保し、急速に南下した。オスマン帝国艦隊の壊滅とロシアの急拡大はイギリスとフランスに脅威を抱かせ、フランスはオスマン帝国を擁護して介入する姿勢を見せた。1854年、イギリスとフランスはロシアにモルダヴィアとワラキアから退くよう最後通牒を突きつけ、これが無視された後に宣戦を布告した。 ニコライ1世は、1848年の革命鎮圧に協力した経緯から、オーストリアは少なくとも中立を守るだろうと期待していた。しかしオーストリアもロシアの行動を脅威と感じており、ロシア軍の撤退を要求するイギリスとフランスを支持した。ロシアに宣戦することはなかったものの、中立を守ることは約束しなかった。1854年の夏に再びオーストリアが撤退を要求すると、オーストリアの介入を恐れたロシアは、これに応じて撤退した。 ロシアがドナウ川付近から兵を退いたので、戦争は元々の理由を失った。しかし、オスマン帝国に対するロシアの脅威を取り除き「東方問題」を決着させるために、イギリスとフランスは戦争を続行し、ロシアに次の要求を提示した: ドナウ川付近の公国に対する保護権の放棄 帝国内の正教徒の保護を理由にオスマン帝国に介入することの放棄 「海峡問題」について1841年の条約が再確認されること ドナウ川の通行権は全ての国に認められること しかしニコライ1世はこの「4項目」を拒否したので、戦争は続行した。 ニコライ1世が死ぬと、後継したアレクサンドル2世は和平交渉を開始し、講和条約のパリ条約を締結した。パリ条約では「4項目」の主旨が厳守され、ドナウ川沿岸の公国に対するロシアの特権は列強に譲渡され、黒海沿岸にはオスマン帝国もロシアも一切の海軍施設および海事に関わる軍需工場を設けないことが約束された。これにより、オスマン帝国に対するロシアの脅威は大きく減じた。さらに列強により、オスマン帝国の独立および領土保全を尊重することが約束された。 クリミア戦争前後の各国の軍事支出(単位:100万ポンド) 1852 1853 1854 1855 1856 ロシア 15.6 19.9 31.3 39.8 37.9 フランス 17.2 17.5 30.3 43.8 36.3 イギリス 10.1 9.1 76.3 36.5 32.3 オスマン 2.8 ? ? 3.0 ? サルデーニャ 1.4 1.4 1.4 2.2 2.5 クリミア戦争は「東方問題」が各国の政治に特に大きな影響を与えた事例。主要参戦国であるイギリス・フランス・ロシアの軍事費がのきなみ増大しているが、イギリスの軍事費の異常な増大が特に注目される。この大規模な戦争での敗北によってロシアの影響力は著しく低下し、1870年代にいたるまで「東方問題」は安定した。(出典:『ミシガン大学政治・社会研究インター・ユニヴァーシティー・コンソーシアム』) パリ条約の体制は1871年にフランスとプロイセンが交戦した普仏戦争まで維持された。普仏戦争の結果ドイツはプロイセンを中心に強力なドイツ帝国を形成し、フランスは打撃を受け、1852年以来帝政をしいていたナポレオン3世は追放されて現在の共和制(フランス共和国)となった。イギリスと友好関係を維持したナポレオン3世の治世の間、フランスとロシアとは「東方問題」をめぐる対立関係にあったが、パリ条約以降オスマン帝国へのロシアの干渉は重大問題とならなかったこともあり、共和制になったフランスはロシアに接近した。さらにロシアは、ドイツ帝国のビスマルクの支持も得て、パリ条約における黒海の非武装化条項を非難した。イギリスは反対したが、単独ではこのような動きを押さえ込むができなかったため、ロシアは黒海艦隊を再建することに成功した。
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クリミア戦争
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「ニコライ・ビリリョフ」の記事における「クリミア戦争」の解説
1853年のクリミア戦争に従軍し、シノープの海戦に加わっている。1854年9月21日の戦闘では夜襲を仕掛け、将校2人と数人の兵士を捕虜とした。セヴァストポリの戦いでは頭部を被弾して重傷を負うが、回復後に中尉に昇進し、第三防御陣の指揮官に任命された。1855年3月11日の戦闘では敵兵750人を殺害し大砲10門を奪う活躍を見せ、この功績により四等聖ゲオルギー勲章(ロシア語版)、二等聖アンナ勲章(ロシア語版)、四等聖ウラジーミル勲章(ロシア語版)を授与された。
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クリミア戦争
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「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世」の記事における「クリミア戦争」の解説
「クリミア戦争」、「セバストポリの攻囲戦」、および「ケルナーヤの戦い」も参照 1852年、カヴールおよびチェッラレンゴおよびイゾラベッラ伯爵カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ(通称カヴール伯もしくはカミッロ・カヴールだが、カヴールは爵位名であり姓ではない。姓はベンソである。)を王国宰相に任命したエマヌエーレ2世は、統一事業をいかに進めるか、対策を協議することになった。カヴールの元で諸外国との入念な根回しが進められ、また先の反省から共和勢力とも一定の距離を置きつつも協力が図られた。翌年にロシアとオスマン帝国という東方の大国同士が衝突を始めると、ロシアの南下に危機感を抱いたフランス・イギリスがオスマン側に立って参戦し、クリミア戦争へと発展した。サルデーニャ王国は英仏への支援という名目で、1万5000名の遠征軍をクリミア戦争へ派遣する決定を下した。 当初、外交政策に力を入れていたカヴール自身はオスマン側の勝利や外交的意義に疑問を抱いており、むしろこの遠征を強く勧めたのはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の方であった。到着したサルデーニャ王国軍は最大の激戦区となっていたセバストポリ要塞への総攻撃に投入され、無傷の増援部隊は疲れ果てていた英仏土軍にとって貴重な援軍となった(セバストポリの攻囲戦)。要塞陥落後、フランスにおける皇帝記念日であり、サルデーニャにおける聖母被昇天の祭日である日にロシア軍の奇襲が行われたが、サルデーニャ軍はミハイル・デミトリヴィチ・ゴルチャロフ (en) 将軍の攻撃を防ぎ、ロシア軍陣地へと押し返す功績を残した。 期待以上の活躍を見せることに成功したサルデーニャ軍であったが、肝心のクリミア戦争は実質的に痛み分けという結果に終わった。外交面ではフランスやイギリスとの友好関係を高めることはできたものの、この時点では具体的な支援を約束するまでには至らなかった。だが英仏との協力関係、加えて同戦争でのオーストリアの孤立は、後にカヴールによるプロンビエールの密約への足がかりともなった。協定で、オーストリアに打撃を与えるためにフランスはサルデーニャを支援し、またサルデーニャは参戦の口実となる相手からの開戦を引き出すように求められた。 予定通りロンバルディアとヴェネトを平定すればサルデーニャが同地を併合、見返りにニースとサヴォワがフランスへ譲られる約束となった。
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クリミア戦争
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詳細は「クリミア戦争」を参照 1853-1856年、オスマン帝国の分割に伴う勢力圏をヨーロッパの列強が争った一環として、フランス、イギリス、オスマン帝国、サルデーニャ王国およびナッサウ公国の連合軍とロシア帝国が激突したクリミア戦争が起こった。この戦争では、クリミアが主戦場となった。 戦闘はオスマン帝国の属国ワラキア・モルダヴィアと黒海で始まり、1854年9月に同盟軍がクリミアに上陸し、黒海艦隊の母港セヴァストポリに進軍した。クリミアで繰り広げられた戦いの後、セヴァストポリ攻囲戦は1855年9月の陥落で決着した。 この戦争はクリミアの社会・経済に多大な影響をもたらした。クリミア・タタール人は戦火の中で生じた迫害や土地の収奪から逃れ、故郷を離れることを余儀なくされた。逃避行、飢餓と病気を生き延びた人々はドブロジャ、アナトリアなどのオスマン帝国領内に移住した。 1905年にロシア第一革命が起こると、黒海艦隊の船員とセヴァストポリ駐屯地の兵士、港の労働者らが武装蜂起する事案が発生。やがてロシア全土で政治的ストライキが広がり、クリミアでは大騒動が巻き起こされた。 「セヴァストポリ蜂起 (1905年)(ロシア語版)」も参照
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クリミア戦争
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「クリミア戦争」の解説
クリミア戦争の戦況は、クリミア半島セヴァストポリ要塞の戦いでロシアの堅い守備に阻まれて苦戦を強いられていた。パーマストン卿が目下やらねばならないことはクリミア戦争に道筋をつけることであった。 オーストリア外相カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタイン伯爵の提唱で1855年3月から3か月にわたって開催されたウィーンでの和平交渉会議にパーマストン子爵は、ラッセルを英国代表として派遣した。パーマストン卿はセヴァストポリ要塞を陥落させない限り、ロシアがこちらの要求を呑むはずはなく、会議は失敗におわると考えており、そのため元首相のラッセルを派遣することでイギリスが会議を重視していることを国際社会に示しつつ、会議の失敗を理由にラッセルを失脚させようと考えたのである。パーマストン卿の予想通り、黒海における海軍力制限にロシア代表アレクサンドル・ゴルチャコフ公爵が難色を示したことで1855年6月に会議は決裂した。これによりラッセルの権威は低下し、パーマストン卿のホイッグ党内における優位が確立された。 1855年9月、ついに英仏軍はセヴァストポリ要塞を陥落させることに成功した。ナポレオン3世はこれを機に戦争終結の交渉に入ることを希望するようになった。ロシアも同要塞の陥落直後には交渉で不利な立場に立たされることを嫌がって継戦の姿勢を示していたが、1856年に入ると終戦を望むようになり、譲歩の姿勢を示すようになった。 パーマストン卿は継戦を希望していたが、連合軍の戦力の中心はフランス軍であったからフランスが戦意をなくしてはパーマストン卿も折れるしかなかった。イギリスの孤立を避けるためにもナポレオン3世の提唱するパリでの国際会議に賛同することとなった。同会議の結果、1856年3月14日にパリ条約が締結され、黒海の非武装化、ドナウ川の航行自由化、モルダヴィア公国とワラキア公国のトルコ返還(自治権付与)が取り決められて終戦した。 講和をめぐって彼が主導権を発揮することはできなかったが、女王からは4月11日に「戦争が終結し、この国の名誉と利益がパリ条約によって守られたことに満足の意を示します。これもパーマストン卿の熱意と指導力の賜物です。そこで女王は卿にガーター勲章を贈ります」とする書簡を送られた。イギリス臣民のガーター騎士団の人数には24名という定数があり、騎士団員が死んで席が空かない限り、新しい騎士団員を任命することはできないが、パーマストン卿は特例として席が空くまでの暫定として「特別騎士(extra Knight)」に叙されることになった。
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クリミア戦争
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「アブデュルメジト1世」の記事における「クリミア戦争」の解説
ムスタファと協力して帝国の近代化に務めていたさなか、ロシア帝国のニコライ1世がオスマン帝国領内のギリシア正教徒の保護を理由として1853年、オスマン帝国に対して宣戦布告する。これがクリミア戦争である。 当初は強力なロシア軍の攻撃を受けて連戦連敗したが、やがてロシアの進出を恐れたイギリス・フランス・サルデーニャ王国などの援助を受けて盛り返し、1856年には勝利した。そして、ムスタファを全権大使として派遣し、パリ条約を結んだ。これにより、オスマン帝国の国際的地位を高めたのである。また、この戦争の反省からギリシア正教徒の社会的平等を承認している。同年には非キリスト教徒の外国君主としては初めて、イングランド最高位の勲章であるガーター勲章を授与された。 しかし、1858年に補佐役のムスタファ・レシト・パシャが死去すると政治に対する関心を失い、改革を取りやめて自身の快楽に対して乱費を行なうようになる。また、1856年にはキリスト教徒に対して寛容策(改革勅令)を表明したことによって、かえって反キリスト教徒的な一派からの不満が上がり、国内各地で暴動が起きてしまう。また、キリスト教徒からも不満が高まってしまいモンテネグロ(1858)やボスニアでも暴動が起こった。1859年にアブデュルメジトを廃位し、弟のアブデュルアズィズを即位させようとする計画が発覚し、未然に計画を阻止できたものの近代化に対する不満が露呈した。
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