バラクラヴァの戦い
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バラクラヴァの戦い Балакла́вское сражение Battle of Balac(k)lava |
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![]() 軽騎兵旅団の突撃 |
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戦争:クリミア戦争 | |
年月日:1854年10月25日 | |
場所:バラクラヴァ(ウクライナ・クリミア半島) | |
結果:連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
![]() フランソワ・カンロベール |
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戦力 | |
4500 | 25,000 |
損害 | |
615 | 627 |


バラクラヴァの戦い(バラクラヴァのたたかい、露: Балакла́вское сражение, 英: Battle of Balaclava)は、クリミア戦争中の戦いの一つである。 ロシア軍のセヴァストポリ救援部隊が、イギリス・フランス・トルコ連合軍がセヴァストポリ攻略のための足場としていたセヴァストポリ近郊のバラクラヴァへ攻撃したことで始まったが、連合軍がロシアの攻撃を防ぎきって戦いが終わった。
戦闘
この戦いでは三つの後世に名を残す有名な戦闘行動が行なわれた。これらはいずれもイギリス軍の勇猛さを示すものとして、創作の題材となっている。[1]
シン・レッド・ライン
ロシア軍の攻撃によりトルコ軍が潰走し、バラクラヴァ港へ向かう道に残されたのはクライド男爵コリン・キャンベル麾下の第93歩兵連隊(93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)550人と少数のトルコ歩兵およびイギリス海兵隊のみであった。しかし、第93連隊は2列横隊でロシア軍の騎兵による突撃を防いだ。当時の歩兵の制服の色から、これはシン・レッド・ライン(The Thin Red Line)として知られる。
重騎兵旅団の突撃
このロシア軍騎兵3,500人は目標を変更し、スカーレット准将(James Yorke Scarlett)率いるイギリス重騎兵旅団600人に向かった。しかし、6倍も優勢なロシア軍騎兵に対してイギリス重騎兵旅団は逆に突撃し、ロシア軍騎兵を崩壊させた。これは重騎兵旅団の突撃(Charge of the Heavy Brigade)と呼ばれている。
軽騎兵旅団の突撃
ロシア砲兵が連合軍補給路を攻撃出来る場所へ展開することを防ぐために、ラグラン男爵フィッツロイ・サマセット(en)は軽騎兵旅団に対してロシア砲兵の移動を阻止するよう命令を出した。しかし、連絡将校ルイス・ノーラン(en)大尉が命令を誤って伝えたため[注 1]、第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネル(en)率いる軽騎兵旅団673名がロシア軍砲兵陣地に正面から突撃し、死傷者278名という大損害を被った。この突撃は軽騎兵旅団の突撃(Charge of the Light Brigade)と呼ばれ、無謀ではあるが勇敢であると評価されており、数多くの絵画や文学、音楽等の創作の題材となっている。アルフレッド・テニスンも物語詩「The Charge of the Light Brigade」でその勇敢さを讃えている。また、1936年(邦題:すすめ龍騎兵)と1968年(邦題:遥かなる戦場)には同じ題名で映画化されている。イギリスのヘヴィメタルバンド、アイアン・メイデンはテニスンの詩に着想を得て「明日なき戦い(原題"The Trooper")」(アルバム「頭脳改革」収録)を書いた。
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イギリス重騎兵旅団長スカーレット准将(James Yorke Scarlett)。
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イギリス軽騎兵旅団長第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネル
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ルイス・ノーラン大尉
関連作品
- 映画
- すすめ龍騎兵(The Charge of the Light Brigade)(1936年、マイケル・カーティス監督)
- 遥かなる戦場(The Charge of the Light Brigade)(1968年、トニー・リチャードソン監督)
注釈
- ^ 第15軽騎兵連隊(15th The King's Hussars)のルイス・ノーラン大尉は軽騎兵万能論者であり、自説を証明するため故意に命令とは違う攻撃目標を伝えたという説もある[2]。彼は突撃に参加し、最初に戦死している。一方、映画「遥かなる戦場」(The Charge of the Light Brigade)ではカーディガン伯爵が勘違いし、戦死したルイス・ノーラン大尉に責任をなすりつけたように描かれている。
脚注
参考資料
- ジョン・マクドナルド 著、松村赳 訳『戦場の歴史 : コンピュータ・マップによる戦術の研究』河出書房新社、1986年2月。ISBN 978-4-309-22120-5。
- 【歴史群像 No.64】、2004年、学研
関連項目
バラクラヴァの戦い
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「ジョージ・ビンガム (第3代ルーカン伯爵)」の記事における「バラクラヴァの戦い」の解説
アルマの戦いの後、連合軍(イギリス、フランス、オスマン帝国の連合軍)は進軍を再開、セヴァストポリを包囲しようとした。連合軍が東からセヴァストポリに接近する中、前衛の騎兵を率いたルーカン伯爵は先導が道を誤ったせいで横道にそれてしまい、ラグラン男爵が危うくロシアの部隊に向けて進軍してしまうという事件が起こった。誤りに気づいたルーカン伯爵は慌てて引き返し、馬を飛ばしてラグラン男爵のもとに着いたが、ラグラン男爵に大声で「遅れたぞ、ルーカン卿」(Lord Lucan, you are late!)と叱責された。『オックスフォード英国人名事典』はこの過ちもルーカン伯爵のせいではないと評した。 10月24日の夜、ルーカン伯爵は長男で副官のビンガム卿ジョージ・ビンガム(英語版)をラグラン男爵のもとに送り、敵軍がイギリス軍の補給港への攻撃を計画していたことを報告したが、ラグラン男爵はよくある誤情報だとして無視した。 25日朝、のちに論争となるバラクラヴァの戦いが勃発した。戦場となるバラクラヴァ港近くの平原は連合軍のセヴァストポリ包囲網の外にあり、中央が高原になっていたため、トルコ民兵が守備するルドゥート4つが配置されていた。また、この高原により平原が南北に分割されていた。ラグラン男爵は高地におり、平原全体を見渡すことができたが、平原の片側にいる人はもう片側が見えないという地形だった。 まず、ルーカン伯爵は日の出のときに平原の南側で巡回していたが、ルドゥートがロシア軍の攻撃を受けていたことを発見したため、ラグラン男爵に警告を送ったうえで重騎兵を前進させ、砲兵部隊を高原の西側に派遣して敵軍を食い止めようとしたが失敗、ロシア軍はルドゥートを占領した。これによりルーカン伯爵は自軍が敵軍の射程に入らないよう撤退した。一方、北側の平原を見渡したラグラン男爵はロシア騎兵約2,000人が行軍しており、その一部がバラクラヴァに向けて進軍していることを見つけ、ルーカン伯爵にカディコイ(英語版)(高原とバラクラヴァ港のちょうど間にある村)に駐留していたサー・コリン・キャンベル(英語版)の小部隊に増援するよう命じた。ルーカン伯爵はカーディガン伯爵に固守する(stand fast)よう命じた後、キャンベルの増援に向かい、ロシア騎兵を撃退した。これがのちに「シン・レッド・ライン(英語版)」と呼ばれる出来事である。 「シン・レッド・ライン」の一方、スカーレット率いる重騎兵は南側の平原を行軍していたが、ロシア騎兵の本隊が高原にたどり着いた。そこでルーカン伯爵がスカーレットに突撃を命じ、ロシア騎兵本隊の撃退に成功した。これがのちに「重騎兵旅団の突撃」と呼ばれる出来事である。ところが、ロシア騎兵がちりぢりになったところ、カーディガン伯爵率いる軽騎兵が動こうとしなかったため、ルーカン伯爵はカーディガン伯爵が故意に動かなかったと批判、カーディガン伯爵は先の「固守すべし」の命令を守っただけだと主張した。『オックスフォード英国人名事典』はルーカン伯爵が戦況の変化を主張できると評した。というのも、この時点で軽騎兵は戦場から外れたところにあり、イギリス重騎兵がいるカディコイから4マイル離れているためである。 ここでロシア軍がルドゥートから鹵獲した大砲を運び去ろうとし、ラグラン男爵がそれを発見してルーカン伯爵に阻止を命じた。また、歩兵2個師団を増援としてルーカン伯爵のもとに派遣した。これを受けてルーカン伯爵は重騎兵を南側の平原に留まらせ、軽騎兵を北側の平原に移動させ、自身は高原の西側、敵軍の見えない場所に移動した。ルーカン伯爵はそこで増援の到着を待ったが、10時40分ごろに再びラグラン男爵からの命令を受けた。ラグラン男爵の命令文は「ラグラン卿は騎兵が速やかに前進し、敵軍の大砲持ち去りを防ぐよう試みることを望む。乗馬砲兵隊は同行できる。フランス騎兵隊はあなたの左側にいる。すぐに」(Lord Raglan wishes the cavalry to advance rapidly to the front, and try to prevent the enemy carrying away the guns. Troop of horse artillery may accompany. French cavalry is on your left. Immediate)というものであり、ルイス・ノーラン(英語版)大尉が伝令を務めた。 ルーカン伯爵のもとに着いたノーランとルーカン伯爵が交わした言葉はのちに論争の的になった。ルーカン伯爵は「このような攻撃の無用さと危険」(the uselessness of such an attack, and the danger attending it)を知っていたが、従わざるを得なかった。結果的に北側の平原にある軽騎兵旅団を(西から)前進させ、平原の東側にある大砲12門の奪回を目指したが、この平原の南北にある高地はロシア歩兵と砲兵に占領されており、軽騎兵も撤退の援護として投入された重騎兵2個連隊も大損害を受けた。大砲の奪回は成功したが、戦闘の後に行われた点呼では軽騎兵673人のうち195人しか残っておらず、ルーカン伯爵も足に銃弾を受けてを負傷した(2、3日動けず、その後は一時片足をうまく動かせないという程度の怪我だった)。ノーラン自身も戦死した。この出来事は後に「軽騎兵旅団の突撃(英語版)」と呼ばれ、『ロンドン・ガゼット』では同年11月12日に報じられた。
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