バラクラヴァの戦いとは? わかりやすく解説

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バラクラヴァの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/25 13:42 UTC 版)

バラクラヴァの戦い
Балакла́вское сражение
Battle of Balac(k)lava

軽騎兵旅団の突撃
戦争クリミア戦争
年月日1854年10月25日
場所:バラクラヴァ(ウクライナクリミア半島
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
イギリス
フランス
オスマン帝国
ロシア帝国
指導者・指揮官
フィッツロイ・サマセット (初代ラグラン男爵)
フランソワ・カンロベール
パヴェル・リプランディ
戦力
4500 25,000
損害
615 627
クリミア戦争
第93歩兵連隊のシン・レッド・ライン。
初代ラグラン男爵フィッツロイ・サマセットワーテルローの戦いで右腕を失った

バラクラヴァの戦い(バラクラヴァのたたかい、: Балакла́вское сражение, : Battle of Balaclava)は、クリミア戦争中の戦いの一つである。 ロシア軍のセヴァストポリ救援部隊が、イギリスフランストルコ連合軍がセヴァストポリ攻略のための足場としていたセヴァストポリ近郊のバラクラヴァへ攻撃したことで始まったが、連合軍がロシアの攻撃を防ぎきって戦いが終わった。

戦闘

この戦いでは三つの後世に名を残す有名な戦闘行動が行なわれた。これらはいずれもイギリス軍の勇猛さを示すものとして、創作の題材となっている。[1]

シン・レッド・ライン

ロシア軍の攻撃によりトルコ軍が潰走し、バラクラヴァ港へ向かう道に残されたのはクライド男爵コリン・キャンベル麾下の第93歩兵連隊(93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)550人と少数のトルコ歩兵およびイギリス海兵隊のみであった。しかし、第93連隊は2列横隊でロシア軍の騎兵による突撃を防いだ。当時の歩兵の制服の色から、これはシン・レッド・ラインThe Thin Red Line)として知られる。

重騎兵旅団の突撃

このロシア軍騎兵3,500人は目標を変更し、スカーレット准将(James Yorke Scarlett)率いるイギリス重騎兵旅団600人に向かった。しかし、6倍も優勢なロシア軍騎兵に対してイギリス重騎兵旅団は逆に突撃し、ロシア軍騎兵を崩壊させた。これは重騎兵旅団の突撃(Charge of the Heavy Brigade)と呼ばれている。

軽騎兵旅団の突撃

ロシア砲兵が連合軍補給路を攻撃出来る場所へ展開することを防ぐために、ラグラン男爵フィッツロイ・サマセットen)は軽騎兵旅団に対してロシア砲兵の移動を阻止するよう命令を出した。しかし、連絡将校ルイス・ノーラン(en大尉が命令を誤って伝えたため[注 1]、第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネルen)率いる軽騎兵旅団673名がロシア軍砲兵陣地に正面から突撃し、死傷者278名という大損害を被った。この突撃は軽騎兵旅団の突撃(Charge of the Light Brigade)と呼ばれ、無謀ではあるが勇敢であると評価されており、数多くの絵画や文学、音楽等の創作の題材となっている。アルフレッド・テニスンも物語詩「The Charge of the Light Brigade」でその勇敢さを讃えている。また、1936年(邦題:すすめ龍騎兵)1968年(邦題:遥かなる戦場)には同じ題名で映画化されている。イギリスのヘヴィメタルバンド、アイアン・メイデンはテニスンの詩に着想を得て「明日なき戦い(原題"The Trooper")」(アルバム「頭脳改革」収録)を書いた。

関連作品

注釈

  1. ^ 第15軽騎兵連隊(15th The King's Hussars)のルイス・ノーラン大尉は軽騎兵万能論者であり、自説を証明するため故意に命令とは違う攻撃目標を伝えたという説もある[2]。彼は突撃に参加し、最初に戦死している。一方、映画「遥かなる戦場」(The Charge of the Light Brigade)ではカーディガン伯爵が勘違いし、戦死したルイス・ノーラン大尉に責任をなすりつけたように描かれている。

脚注

参考資料

  • ジョン・マクドナルド 著、松村赳 訳『戦場の歴史 : コンピュータ・マップによる戦術の研究』河出書房新社、1986年2月。ISBN 978-4-309-22120-5 
  • 【歴史群像 No.64】、2004年、学研

関連項目

座標: 北緯44度30分0秒 東経33度36分0秒 / 北緯44.50000度 東経33.60000度 / 44.50000; 33.60000


バラクラヴァの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:44 UTC 版)

ジョージ・ビンガム (第3代ルーカン伯爵)」の記事における「バラクラヴァの戦い」の解説

アルマの戦いの後、連合軍イギリスフランスオスマン帝国連合軍)は進軍再開セヴァストポリ包囲しようとした連合軍が東からセヴァストポリ接近する中、前衛騎兵率いたルーカン伯爵先導が道を誤ったせいで横道にそれてしまい、ラグラン男爵危うくロシア部隊向けて進軍してしまうという事件が起こった誤りに気づいたルーカン伯爵慌てて引き返し、馬を飛ばしてラグラン男爵のもとに着いたが、ラグラン男爵大声で「遅れたぞ、ルーカン卿」(Lord Lucan, you are late!)と叱責された。『オックスフォード英国人名事典』はこの過ちルーカン伯爵のせいではないと評した10月24日の夜、ルーカン伯爵長男副官ビンガム卿ジョージ・ビンガム(英語版)をラグラン男爵のもとに送り敵軍イギリス軍補給港への攻撃計画していたことを報告したが、ラグラン男爵よくある誤情報だとして無視した25日朝、のちに論争となるバラクラヴァの戦いが勃発した戦場となるバラクラヴァ近く平原連合軍セヴァストポリ包囲網の外にあり、中央高原になっていたため、トルコ民兵守備するルドゥート4つ配置されていた。また、この高原により平原南北分割されていた。ラグラン男爵高地におり、平原全体を見渡すことができたが、平原片側にいる人はもう片側見えないという地形だった。 まず、ルーカン伯爵日の出のときに平原南側巡回していたが、ルドゥートロシア軍の攻撃受けていたことを発見したため、ラグラン男爵警告送ったうえで重騎兵前進させ、砲兵部隊高原西側派遣して敵軍食い止めようとしたが失敗ロシア軍ルドゥート占領した。これによりルーカン伯爵自軍敵軍射程入らないよう撤退した一方北側平原見渡したラグラン男爵ロシア騎兵約2,000が行軍しており、その一部バラクラヴァ向けて進軍していることを見つけ、ルーカン伯爵にカディコイ(英語版)(高原バラクラヴァのちょうど間にある)に駐留していたサー・コリン・キャンベル(英語版)の小部隊に増援するよう命じたルーカン伯爵カーディガン伯爵固守するstand fast)よう命じた後、キャンベル増援向かいロシア騎兵撃退した。これがのちに「シン・レッド・ライン英語版)」と呼ばれる出来事である。 「シン・レッド・ライン」の一方スカーレット率い重騎兵南側平原行軍していたが、ロシア騎兵本隊高原にたどり着いた。そこでルーカン伯爵スカーレット突撃命じロシア騎兵本隊撃退成功した。これがのちに「重騎兵旅団の突撃」と呼ばれる出来事である。ところが、ロシア騎兵ちりぢりになったところ、カーディガン伯爵率い軽騎兵動こうとしなかったため、ルーカン伯爵カーディガン伯爵故意に動かなかったと批判カーディガン伯爵先の固守すべし」の命令守っただけだと主張した『オックスフォード英国人名事典』ルーカン伯爵戦況変化主張できる評したというのも、この時点軽騎兵戦場から外れたところにあり、イギリス重騎兵がいるカディコイから4マイル離れているためである。 ここでロシア軍ルドゥートから鹵獲した大砲運び去ろうとし、ラグラン男爵がそれを発見してルーカン伯爵阻止命じたまた、歩兵2個師団増援としてルーカン伯爵のもとに派遣した。これを受けてルーカン伯爵重騎兵南側平原に留まらせ、軽騎兵北側平原移動させ、自身高原西側敵軍見えない場所に移動したルーカン伯爵はそこで増援到着待ったが、10時40分ごろに再びラグラン男爵からの命令受けたラグラン男爵命令文は「ラグラン卿は騎兵速やかに前進し敵軍大砲持ち去りを防ぐよう試みることを望む。乗馬砲兵隊同行できる。フランス騎兵隊はあなたの左側にいる。すぐに」(Lord Raglan wishes the cavalry to advance rapidly to the front, and try to prevent the enemy carrying away the guns. Troop of horse artillery may accompany. French cavalry is on your left. Immediate)というものであり、ルイス・ノーラン(英語版大尉伝令務めたルーカン伯爵のもとに着いたノーランルーカン伯爵交わした言葉はのちに論争の的になったルーカン伯爵は「このような攻撃無用さと危険」(the uselessness of such an attack, and the danger attending it)を知っていたが、従わざるを得なかった。結果的に北側平原にある軽騎兵旅団を(西から前進させ、平原東側にある大砲12門の奪回目指したが、この平原南北にある高地ロシア歩兵砲兵占領されており、軽騎兵撤退援護として投入され重騎兵2個連隊大損害を受けた大砲奪回成功したが、戦闘の後行われた点呼では軽騎兵673人のうち195人しか残っておらず、ルーカン伯爵も足に銃弾受けて負傷した2、3動けず、その後一時片足をうまく動かせないという程度怪我だった)。ノーラン自身戦死した。この出来事は後に「軽騎兵旅団の突撃英語版)」と呼ばれ、『ロンドン・ガゼット』では同年11月12日報じられた。

※この「バラクラヴァの戦い」の解説は、「ジョージ・ビンガム (第3代ルーカン伯爵)」の解説の一部です。
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