重騎兵
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重騎兵(じゅうきへい、heavy cavalry)は、鎧で重武装した騎兵である。
歴史
古代
古代の農耕社会における戦場の主役は重装歩兵であった。騎兵も重要な存在ではあったが、偵察や追撃といった機動力(移動の速さ)を生かした戦術に用いられることが多かった。当時は馬具が未発達であり、馬に乗りなれない人間には重い鎧をまとって馬上で戦うことが難しかったためである。ただし、元来牧畜の民が多かったマケドニア王国のヘタイロイなど突撃力を生かす運用をされた騎兵も存在した、また遊牧民であるスキタイや匈奴には重装備で身を固め、馬鎧を付けて突撃する重装騎兵が存在していた。カルタゴのハンニバル、ローマのスキピオ、カエサルなどは、その機動力を活かして翼から包囲する戦法を用いて、勝敗の決定打とした。
4世紀の中国で鐙が発明されたことによって、重装備を装着しながらの騎乗が可能になり、馬上での戦いも行いやすくなったため、突撃力を重視する重騎兵の役割が増した。
中世
中国における南北朝時代の北朝や隋の他、遼や西夏・金といった周辺異民族の王朝では軽騎兵よりも金属鎧を着込み馬に馬鎧を付けて突撃を行う重騎兵(鉄騎)が重要な地位を占めた。東ローマ帝国でも馬にも甲冑を帯びたカタフラクトが軍の主力となった。モンゴル軍や、初期イスラム帝国からオスマン帝国を通してのアラブ・ペルシャ諸国家は、軽騎兵による騎射と重騎兵による突撃を巧みに使い分けた。
ユーラシアでは主に遊牧民から構成された突厥やモンゴル、ティムール朝、オスマン帝国などが、軽騎兵による騎射と重装備を施された重騎兵による突撃を駆使して、東西に広がる広大な版図を征服した。ヨーロッパでもレヒフェルトの戦いにおいて重装備の騎士の軍が数で倍する軽騎兵で構成されたマジャール人の軍を打ち破るなど、重騎兵が大きな力を発揮し軍事上重要な地位を占めた。百年戦争後期フランスの騎士などは非常に重い馬鎧を馬に着せたため頑強な防御力を誇ったが、その分機動力が低下したため、アジャンクールの戦いでは射程のあるロングボウの連射により次々と討たれたと言われる。
近世
近世に入ると、ヨーロッパでは火器の発達により重装の槍騎兵は廃れたが、自らも火器を活用するようになった騎兵は依然として一線で活躍した。スペインとポーランドを除いた諸国では16世紀末までに騎兵はピストルとサーベルを装備することになった[1]。なお、16世紀半ばからスペインは騎兵に小銃を装備させていた。例外的にポーランドのフサリアは当初は軽騎兵であったが、16世紀にはランスで突撃を行う重騎兵に発展し、18世紀まで活躍した。
近世の重騎兵の主流は胸甲(キュイラス)を身にまとった胸甲騎兵(cuirassier)であった。胸甲騎兵は崩れかけた敵陣を突撃によって粉砕するといった役割を負った。突撃を銃で支援する火縄銃騎兵やカービン(騎兵銃)騎兵と言った騎兵も存在した。このころグスタフ・アドルフやフリードリヒ大王らによって、歩兵、砲兵と組み合わせる近代的な騎兵の運用方法が工夫された。
近代から現代
19世紀はじめのナポレオン戦争期にはナポレオン・ボナパルト率いる大陸軍が騎兵による集団突撃を重視したため、重騎兵が活躍した。大陸軍の重騎兵には胸甲騎兵の他カービン騎兵(仏Carabiniers-à-Cheval)等も存在しそれぞれ騎兵連隊に編成されていた。
近代以降、戦場における火器の進化により装甲が用をなさなくなったこともあり、重騎兵は軽騎兵に吸収される形で次第に消滅した。胸甲騎兵など各種の重騎兵が最後に活躍したのはクリミア戦争や普仏戦争と言われている。なお、ヨーロッパでは普仏戦争以降、第一次世界大戦まで、大規模な戦争はない。また19世紀以降、銃器のライフリングが普及すると背の高い騎兵は格好の狙撃の的となるため、機動力を利用しての偵察や奇襲、後方撹乱などでの運用が中心となった。第一次世界大戦まではかろうじて存在したが、その後は徐々に戦場から姿を消した。また同じ頃から、機械化、中でも航空機と戦車の導入が進んだことにより、第二次世界大戦後は騎兵そのものが消滅した。
胸甲騎兵など重騎兵の名称は、かつて重騎兵が担っていた機動力およびその高速力を生かした敵中への突破を任務とする戦車をはじめとする機甲部隊や空中機動部隊の伝統名称として、現在でも一部の部隊で用いられている。
出典
- ^ 学研 歴史群像グラフィック戦史シリーズ 戦略戦術兵器事典3 ヨーロッパ近代編p80
関連項目
重騎兵
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「大陸軍 (フランス)」の記事における「重騎兵」の解説
胸甲騎兵(Cuirassiers) 胸甲騎兵は中世の騎士の如く重い真鍮や鉄製の兜に胴体を包む胸当てと背当ての組み合わせの胴鎧(胸甲)を着け、斬撃も出来るが、刺突により向いており、統制のとれた突撃では切っ先を使って刺突する事が多かった長くて重い直刀型サーベル(サーベルは騎兵の主要武器であり、その形状は兵科により様々であり、重騎兵は長くて重い直刀型サーベルを好み、軽騎兵は軽量の曲刀型サーベルを好んだ)と1対の拳銃、カービン銃で武装していたが、ほとんどの胸甲騎兵はすぐに騎銃を持たなくなった。フランス胸甲騎兵はナポレオン時代の最強の重騎兵であり、彼らは戦場ではほぼ無敵であり、アイラウやボロジノの戦いでその真価を見せつけた。戦場ではほぼ激突攻撃だけに用いられ、突撃任務において特別な能力を持っていたが、自前のピストルを使用した散兵戦もある程度は行えた。1812年の装備改定にて胸甲騎兵もカービン銃を装備するようになった。兜と胸甲は銃弾とサーベルと騎兵槍に対する十分な防御効果を持っていた。また、彼らは敵の前進に対する効果的な反撃部隊としても使う事ができ、もし彼らが縦隊や横隊の歩兵を発見し、側面や背後を襲撃する事が出来れば、重騎兵が隊列に突進して、歩兵を斬る、馬の蹄で踏みつけるといった攻撃で、敵を壊滅させられた。当初25個連隊あり後に18個連隊となった。 騎士と同様にこの部隊は騎兵の突撃部隊だった。彼らの着けている甲冑や武器の重量のために、騎手も馬も大きくて強い必要があり、その結果戦闘時には大きな効果を生み出した。胸甲騎兵は精鋭としての自覚を持ち、多数の竜騎兵を含む騎兵の予備部隊の中核をなし、予備の騎兵は勝敗を決する決定的な時期にのみ、熟慮の末に投入され、大集団で運用された。重騎兵は戦場でその能力を証明し、敵に強い印象を残した。特にイギリス軍は胸甲騎兵がナポレオンの近衛騎兵だと誤って信じ込み、その特徴ある胸甲や兜を自軍(Horse Guards)にも採用しようとした。 ナポレオンの胸甲騎兵の運用思想は、敵を総崩れにさせられる地点を戦場で見つけ、騎兵突撃の圧倒的な威力を投入するというものだった。理論上は騎兵突撃開始前に砲兵が準備砲撃を実施しておき、砲撃で弱体化した敵に速度を徐々に上げた騎兵が突入する事になっていた。速歩から始まる胸甲騎兵の突撃は、やがて駆歩へと速度を速め、そして敵陣から150mの位置に迫った時に襲歩へと移行し始め、最後の50mは全速力で疾走する事になる。だが、現実にはフランス軍の司令官は胸甲騎兵に密集隊形をとらせるのを好んだために、理論通りの急激な速度変更は難しかった。司令官たちは胸甲騎兵に大群で緊密な隊形を組み、将兵のブーツ同士が触れるほどになるように命じたが、密集陣形を維持するのは難しく、実際には速度を上げるのは不可能であり、当然のことながら、個々の騎兵が自主性を発揮する機会は奪われた。しかし、このような運用により、胸甲騎兵部隊の前進を阻止するのはほぼ不可能になり、敵騎兵の隊列を崩し、緊密な陣形を組めない歩兵を蹄とサーベルで粉砕できるようになった。だが、それでも胸甲騎兵は、銃剣を装着した歩兵の緊密な方陣、例えば、ワーテルローの戦いに見られたようなものを突破できる戦術を持たず、また、密集隊形での突撃は照準を的確に行う敵砲兵に対して脆弱性をさらす事にもなった。しかし、カトル・ブラの戦いやその後のワーテルローの戦いで、フランス胸甲騎兵の突撃を持ちこたえた強靭なイギリス方陣のイメージは全ての歩兵大隊は方陣を組むべきで、方陣は騎兵攻撃に耐えられるという誤った印象を与えるが、これは間違った考え方であり、ナポレオン戦争時のイギリス歩兵は、当時の最強歩兵であり、彼らの士気と訓練は他に類を見ないもので、実際にナポレオン戦争ではフランス騎兵も同盟国側の騎兵も歩兵の方陣を崩しており、単にある隊形を組むだけでは騎兵突撃を撃退する事は出来ず、頑健な精神に並外れた訓練、冷静な勇気がなければ、押し寄せてくる重騎兵の攻撃を前にして、歩兵方陣を断固として持ちこたえる事は出来ない。その全てがあっても部隊が圧倒される事もあり、イギリス歩兵がカトル・ブラとワーテルローで成し遂げた事はとてつもない偉業である。 この時代の多くはそれぞれ侮りがたい騎兵部隊を保持しており、フランス革命戦争では列強の騎兵はほぼ互角だったが、ナポレオンが1805年の征服戦役で大陸軍を立ち上げると、フランス騎兵は世界最強の存在となり、なかでも胸甲騎兵はナポレオン戦争において支配的な部隊であり、イギリスのスコッツ・グレイズ(第二竜騎兵連隊)やロシアの近衛騎兵など同様の力量がある精鋭部隊は他国にもあったが、全体として見ると1800年から1812年までのフランス重騎兵は無類の存在だった。しかし、ロシア戦役においてフランス騎兵部隊が崩壊し、その後の1813年と1814年の戦役ではフランス騎兵は以前の様に交戦相手を支配する事が出来なかった。オーストリア軍とロシア軍とプロイセン軍にも胸甲騎兵の連隊はあったが、彼らはフランス胸甲騎兵の技量と豪胆さにはとても太刀打ち出来ず、いつも負かされており、実のところ、同盟軍の多くの騎兵は、重さと鞍の上での動きの問題があるという理由で、胸甲を廃止すらしており、1809年までにオーストリア軍は胴体の前だけ覆いがあり、脇と背中はそのままの半胸甲を胸甲騎兵に支給し始めており、この半胸甲は胸甲騎兵を軽量化し、戦役における馬の負担を減らしたが、フランス重騎兵との混戦では攻撃されやすくもなった。ナポレオンは胸甲騎兵について以下の言葉を残している。 「胸甲騎兵は他の全ての騎兵よりはるかに役に立つ。この兵科は……十分に教育する必要がある。胸甲騎兵こそ、馬に乗る兵の知識が最高度に達していなければならないのだ」 重騎兵でも軽騎兵でも力点が置かれるのは激突戦術で、火器はサーベルや槍に次ぐ補助的な武器であり、ほとんどの騎兵は拳銃を携帯しており、中には騎銃を持つ者もおり、重騎兵は敵の方陣を攻撃する時によく拳銃を使い、それは決着を着ける武器ではなく、敵に苛立ちを起こす武器であった。攻撃する騎兵は常に動いているために、一度、拳銃を発射したら襲歩で駆けている騎兵が再装填する事はほぼ不可能であり、拳銃は騎兵同士の混戦でも使う事が出来たが、接戦においては常に、誤射の可能性が高く精度の低い単発の拳銃よりサーベルが好ましかった。また、ナポレオン戦争が進むにつれ、騎銃は騎兵の武器の中で重要度を増していった。 竜騎兵(Dragons) 重騎兵とも思われていたが、竜騎兵と槍騎兵(オーストリア軍とプロイセン軍のウーラン)は重騎兵と軽騎兵の混合であり、竜騎兵は胸甲騎兵の様な防具を身に着けていなかったために、銃弾を掻い潜りながら、突撃する任務には適していなかったが、代わりに軽装備で機動性に優れており、敵をけん制して隊列を崩す、偵察をこなすなど胸甲騎兵とは別の分野で活躍した。フランスの騎兵で最も数が多かったのが竜騎兵であり、ナポレオン戦争の初期には、竜騎兵が胸甲騎兵と共に戦果をあげる事が多く、重騎兵の一種の補助兵力として機能していた。 彼らは高度に融通が利く存在であり、伝統的な直刀型サーベル(トレド鋼製のよく切れる3つ刃のもの)だけでなく、拳銃やマスケット銃(乗馬時には鞍に着けていた)で武装し、騎乗だけでなく歩兵のように徒歩でも戦えるようになっていた。その融通性は歩兵としての能力によるものであり、剣の腕の方は他の騎兵のレベルに届いていないことがあったので、冷笑や愚弄のタネにされた。このパートタイム騎兵に適した馬を見つけることも大変であった。騎兵馬欠乏の際にはしばしば歩兵士官の乗用馬が提供させられたので、ステータスである騎乗を断念させられた歩兵将校の中には、竜騎兵に対して反感を持つ者もいたようである。 当初25個連隊、後に30個連隊あったが、1815年の「百日」の時はわずか15個連隊しかできなかった。 カービン銃騎兵(Carabiniers-à-Cheval) その前身は、フランス国王軍の精鋭騎兵隊である。カービン銃騎兵は、胸甲の防御に頼らない素早い剣さばき技術と、馬上射撃技術の伝統部隊であった。もっとも当時のヨーロッパ諸国の重騎兵の多くは重量胸甲を身に着けていなかったので、こちらの方が標準である。ナポレオン軍独特の胸甲騎兵が無謀な突撃を多用していたのに対して、カービン銃騎兵は馬上射撃と分別ある切り込み白兵戦を専門にしていた。 1812年にナポレオンは彼らにも鉄の胸甲を着けるように命令した。胸甲を着用しないことを誇りにしていた彼らは大いに口惜しがったが、ローマ帝国風の金色胸甲を着用したカラビニエは、フランス帝国式の銀色胸甲を着用するキュラシエとの、ファッションの対象をなした。フランス胸甲騎兵と騎馬騎銃兵という装甲騎兵はヨーロッパの戦場を支配する舞台となり、同盟軍の悩みの種となった。重騎兵としてナポレオン自身が散兵任務を行わせない様に厳命していたが、騎馬騎銃兵も必要に応じて散兵戦を行った。
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