近衛騎兵とは? わかりやすく解説

近衛騎兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:10 UTC 版)

大陸軍 (フランス)」の記事における「近衛騎兵」の解説

近衛騎兵は1804年創設され猟騎兵連隊(Chasseurs-à-Cheval)と騎馬擲弾兵連隊(Grenadiers-à-Cheval)の2つ連隊精鋭集団であるジャンダルム(Gendarmes)大隊およびマムルーク(Mamelukes)大隊があった。1806年3番目の連隊として皇帝近衛竜騎兵連隊(Régiment de Dragons de la Garde Impériale、後の皇妃近衛竜騎兵連隊)が追加された。1807年ポーランド方面作戦続いてポーランド槍騎兵連隊(Régiment de Chevau-Légers de la Garde Impériale Polonais、皇帝近衛ポーランド軽騎兵連隊)が追加された。1810年にはもう一つ槍騎兵連隊フランスオランダ新兵編入し創設された。これを第2皇帝近衛軽騎槍騎兵連隊2e Régiment de Chevau-Légers Lanciers de la Garde Impériale)あるいは赤い槍騎兵連隊呼んだ1812年には第三の軽槍騎兵連隊創設されまた、偵察兵連隊1813年の末に創設された。 近衛騎兵は数多く実戦参加しており、少数例外除いてその戦闘力示してみせた。近衛騎兵の歴史の中で最も有名な逸話ワーテルロー会戦でのポーランド槍騎兵攻撃である。この時は胸甲騎兵隊列組みイギリス軍のロイヤル・スコッツ・グレイズ(第2竜騎兵連隊)とイギリス連合旅団敗走させた。 近衛騎馬擲弾兵(Grenadiers-à-Cheval de la Garde Impériale) 「神」(Gods)とも「巨人」(Giants)とも呼ばれたこの連隊ナポレオンの近衛騎兵連隊中でも精鋭集団であり、「不平屋」(上述)と並ぶ双璧となった。 すべて大きな黒馬に乗った見込みのある新兵は背の高さ176 cm以上、10年上の軍歴があり、最低4回の方面作戦参加し勇猛さ表彰されている必要があった。 この連隊アウステルリッツの戦いロシア軍近衛騎兵を打ち破る功績挙げたが、最も有名な戦闘アイラウの戦い時ののだった。この時は、ロシア60門の大砲砲撃暫く曝されて兵達は退避所を探し始めた指揮官のルイ・レピック大佐叫んだ諸君、頭を上げよ。あれは単なる砲弾であって、糞ではない」間もなく彼らはミュラ攻撃加わりロシア軍戦列になだれ込んだ皇帝近衛騎馬擲弾兵連隊ポーランド槍騎兵連隊とともに一度負けたとがない近衛騎兵連隊であった制服は高い熊毛帽、濃青の上着と襟、白の襟章と特に長い長靴であった重騎兵用のサーベル騎銃拳銃武装しており、皇帝近衛軍全部隊と同様に、彼らも戦闘時には予備隊として控え勝利を確実にするここぞという時にだけ戦場出ており、擲弾騎兵の最も有名な2つ攻撃アウステルリッツの戦いロシア胸甲騎兵連隊敗走追い込んだ事とアイラウの戦いで再び、ロシア軍交戦した事である。 近衛猟騎兵(Chasseurs-à-cheval de la Garde Impériale) 「寵愛された子供達」(暗に甘やかされ餓鬼と言っている)ともといわれた猟騎兵連隊は、軽近衛騎兵であり、大陸軍中でもナポレオンお気に入りで、最も認められ部隊のひとつと言えるフランス革命1796年ナポレオンイタリア遠征赴いていたがボルゲットで昼食中にオーストリア軽騎兵襲われからくも逃げ出した経験があり、その後ボディガードのための騎兵創設命じた。この時の200名の護衛猟騎兵連隊前身となった部隊皇帝との密接な関係はナポレオンがしばしば連隊大佐制服着ていたという事実からも肯定された。 部隊アウステルリッツの戦い初陣飾りロシア軍近衛騎兵を破る際に貢献した半島方面作戦では、1808年ベナヴェンテイギリス騎兵大部隊に待ち伏せを受け敗走した。しかしワーテルローでの特に勇敢な戦い振りで再び評価上げた騎兵きらびやかな緑と赤と金騎馬服に身を包み皇帝お気に入りという地位利用していることも知られていたが、時には訓練足りない様子不服従の色さえ見せていた。近衛マムルーク(Escadron de Mamalukes) 恐ろしい砂漠戦士であり、その忠誠心ボナパルトエジプト遠征獲得した狂信的勇気を伴う優れた騎馬術と剣使い併せ持った部隊。元々は皇帝近衛猟騎兵連隊所属中隊(あるいは半大隊であったロマンチックに正真正銘砂漠息子」であるとか、「首狩り族」などと見られているが、士官フランス人であり、下士官エジプト人やトルコ人ばかりでなく、ギリシア人グルジア人シリア人、キプロス人なども含まれていた。 1805年アウステルリッツの戦い頭角現し、独自の軍旗と第2のトランペット奏者獲得し大隊昇格した。この部隊時には古参近衛隊一部となり、ワーテルローでは皇帝直参として活躍した1813年には第2マムルーク中隊結成され新規近衛隊所属した先輩格のマムルーク大隊同様に猟騎兵連隊連携し1815年百日戦った制服は緑(後に赤)の帽子、白のターバン、緩いシャツチョッキ、赤のズボン、黄または赤また黄褐色長靴色使い華やかであった武器長く反った三日月刀に拳銃短刀組み合わせだった。その帽子武器には真鍮製の三日月と星の記章留められていた。 近衛精鋭憲兵Gendarmerie d’Elite) 滅多に戦闘場面遭遇しないという事実によって「不死身」と渾名されたが、それでも重要な役目果たしたジャンダルム大陸軍憲兵であった作戦本部近くにあってその安全と秩序を図るとともに捕虜尋問し賓客護衛する栄誉浴し、また皇帝個人的な持ち物警護した1807年の後は、実際戦闘参加する機会増え1809年のアスペルン=エスリンクでのドナウ橋の防衛で有名である。 制服濃青の上着と赤の襟章長い長靴と、騎馬擲弾兵のものより幾分小さい熊毛帽であった皇妃竜騎兵Dragons de lImpératice) 1807年皇帝近衛竜騎兵連隊Regiment de Dragons de la Garde Impériale)として創設され翌年皇妃ジョセフィーヌ敬意表して改称された。 この連隊に入るには、少なくとも6年(後に10年)の軍歴があり、最低2回の方面作戦参加し勇猛さ表彰されており背の高さ173 cm以上(騎馬擲弾兵連隊よりやや低い)である必要があった。30個あった正規竜騎兵連隊からは1回編入が1個連隊当たり12人までとされ、後に10人までに減らされた。他の近衛連隊からの志願者編入認められた。 この連隊戦闘用というよりも儀礼用であり、戦闘参加する機会は滅多になかったので、入隊求め競争激しかった赤い槍騎兵と同様、古参近衛隊新規近衛隊大隊があり、最後まで皇帝とともにあった。 近衛槍騎兵(Chevau-Légers-Lanciers de la Garde Impériale) 第1連隊ポーランド1807年ナポレオンポーランド軽騎兵近衛連隊創設することを承認したフランス人教官により訓練施された。しかし、初めての閲兵時にボナパルトの皮肉「彼らは戦い方知っているだけだ」によって位置付け不明確になり、教官即座に解雇された。それにもかかわらずボナパルトポーランド軽騎兵側近に置き、翌年のソモシエラの戦いでは、パレード代わりに戦いの場でその存在価値を示す機会与えられた。ナポレオンは彼らに防御の厚いスペイン砲兵陣地への攻撃命じた武器といえばサーベル拳銃に過ぎなかったが、彼らは4個砲兵中隊打ち破り20門以上の大砲ろ獲し、戦いの流れ決定的に変えた。このほとんど伝説的な偉業後でナポレオンは「ポーランド人よ、君達は私の古参近衛隊と同じ価値がある君達を私の最も勇敢な騎兵隊宣言しよう」と言った古参近衛隊昇格され、与えられたこの連隊ワーテルローまで皇帝の側近にあり、皇帝近衛騎馬擲弾兵連隊同じく、敵に負けことはなかった。この第1連隊発展して正規軍中に第1ヴィスツラ・ウーラン(1e Vistula Uhlans)というポーランド人騎兵隊ができた。このことは単により良い部隊であるということだではなく、深い政治的な信条違いに基づくものであったウーラン槍騎兵熱狂的なナポレオン支持とともに、その多くは(大部分ではないかしれないが)強硬な共和制信奉者であったこのような部隊間の政治的あるいはその他の相違点珍しくなく、ここによく表されている。フランス人教えられる立場から、同僚のヴィスツラとともに教え立場転換しフランス大陸軍の他の槍騎兵対す模範となり、彼らの恐ろしいばかりの有効性倍加させることになった第2連隊フランスオランダ1810年フランス人オランダ人中核となり創設された。部隊はその目に付く制服から赤い槍騎兵Les Lanciers Rouges)と呼ばれた。 この部隊ロシアではコサック攻撃と冬の厳しさのために甚大な被害を受け、ほとんどの兵と馬が失われた連隊1813年再編制され、その最初の4個大隊古参近衛隊構成されたために強力になり、さらに新規近衛隊から6個大隊作られた。その後多く戦い参加して目立った働きをし、最後ワーテルローにも参加した第3連隊ポーランド1812年新規近衛隊一部として編制された。士官下士官古参兵であり、兵卒ポーランドリトアニア学生地主息子で、熱烈ではあるがまだ経験足りない者たちで構成された。 訓練足りないままにロシア戦役投入され1812年遅くコサックユサールによって包囲されスロニム崩壊した近衛儀仗騎兵(Gardes d'honneur de la Garde impériale) 1813年新設された彼らは、ナポレオン新しく考案したサポート専門騎兵であり、近衛騎兵の各連隊随伴して様々な支援任務をこなすことを求められた。これを儀仗兵(Gardes d'honneur)に例えた新しく徴集した富裕層子弟中心青年騎兵から選ばれた者たちで4個連隊編制された。これを発展させて高度なスカウト任務与えられた者たちが、近衛偵察騎兵になった近衛偵察騎兵(Eclaireurs de la Garde Impériale) モスクワからの惨憺たる退却中、ナポレオン数多くコサック連隊の手腕に非常に印象づけられていた。そこで彼は、1813年12月における皇帝近衛隊再編制間中に、彼らを参考として新し騎兵旅団創設した。そして各1,000から成る3個連隊創設され既存連隊に付けられた。第1連隊はクロード・テスト・フェリColonel-Major(皇帝近衛隊限定名誉大佐称号)が指揮した。(1814年3月14日にクラオンヌの戦場で彼は負傷しナポレオン自身から男爵称号授かった

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