戦いの流れ
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後金軍が到着し寧遠の周辺に宿営したが、発砲する明軍の大砲の射程距離を見誤り、退却を余儀なくされた。 戦闘は最も脆いとみなした寧遠の南西角に対する攻撃をヌルハチが直率することで始まった。明の大砲が火を噴き、後金の騎兵隊に大量の死傷者を齎した。 後金軍は防御を強化した攻城兵器を弓兵による火力支援下で用いて別の角を攻め、守備に当たる明軍を誘引し重騎兵でその側面を突くことを目論んだ。しかし通常の砲撃に加えて防御部隊は有毒の爆弾によって後金軍の進撃を阻み、攻城車は楼や城壁からそれぞれが撃たれる結果に終わった。一部は城壁に取り付こうとしたが、事前に明が設置しておいた硝石の列が燃え出し、寧遠周辺に火炎の防御柵が巡らされることになった。続いて袁は「消耗」分隊を送り出し、残りの攻城兵器を処理した。そうしている内に後金は寧遠の別の角を攻撃していたが、燃える油と焼夷性の攻撃で撃退された。火薬と油が布地でくるまれたものが投下されていた。後金軍はその夜撤退した。 包囲がうまくいかないのを見てヌルハチは寧遠の主要な穀倉地帯である覚華島を攻撃するモンゴル騎兵部隊を派遣した。覚華島の防衛は、後金は舟がなく水兵が貧弱なために覚華島に侵攻できないと信じ込んでいたため、緩いものであった。しかしこの年覚華島周辺の海水は凍結し、後金軍は騎兵隊と共に渡ることができた。攻撃で数千人が死に穀倉が破壊されたが、覚華島は当面明の勢力下に保たれた。 攻撃失敗の数日後、寧遠は依然として陥落せず、それどころか後金軍に多大な損失を与えていた。ヌルハチ自身が砲撃で負傷し、盛京(瀋陽)への撤退を決めた。
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戦いの流れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 10:26 UTC 版)
1569年7月、元親は3,000の常備兵と4,000の一領具足を率いて岡豊城を出陣し、安芸郡の和食(わじき)に陣を張った。対する国虎は5,000の兵を集めて八流に陣を張った。長宗我部軍は、軍を二手に分け、一つは海沿い(福留親政以下兵5000)、一つは内陸(兵2000・元親本隊)から攻撃した。海沿いを進んだ長宗我軍5000は八流で黒岩越前率いる安芸勢2000と激突。越前は地の利を生かして勝てると考えたが、後述のように既に内部崩壊を起こし始めていた安芸軍は敗退、安芸配下の城に敗走した。一方、元親本隊2000は、安芸軍の背後を突くことに成功。安芸本隊3000を安芸城に追いやった。この戦いの時、安芸方は小谷左近右衛門ら家臣が次々内応したうえ、2,000、3,000ともいわれる一条氏の援軍が到着しなかったこともあり、安芸軍は内部崩壊を起こしていた。 その後は安芸城で籠城するものの、城内の食糧が尽きたことや、横山民部が井戸に毒を入れたことなどもあり、城兵の助命を条件に開城し8月11日に国虎は自害した。 この戦いに勝利したことで、元親にとって土佐平定に向けて残すは土佐西部を支配する一条氏のみとなった。
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