戦いの流れとは? わかりやすく解説

戦いの流れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/28 06:12 UTC 版)

寧遠の戦い」の記事における「戦いの流れ」の解説

後金軍が到着し寧遠の周辺宿営したが、発砲する明軍大砲射程距離見誤り退却余儀なくされた。 戦闘は最も脆いとみなした寧遠の南西角に対す攻撃ヌルハチが直率することで始まった。明の大砲が火を噴き後金騎兵隊大量死傷者を齎した。 後金軍は防御強化した攻城兵器弓兵による火力支援下で用いて別の角を攻め守備に当たる明軍誘引重騎兵でその側面を突くことを目論んだ。しかし通常の砲撃加えて防御部隊有毒爆弾によって後金軍の進撃阻み攻城車は城壁からそれぞれ撃たれる結果終わった一部城壁取り付こうとしたが、事前に明が設置しておいた硝石の列が燃え出し、寧遠周辺火炎防御柵が巡らされることになった続いて袁は「消耗分隊送り出し残り攻城兵器処理した。そうしている内に後金は寧遠の別の角を攻撃していたが、燃える油と焼夷性攻撃撃退された。火薬と油が布地くるまれたものが投下されていた。後金軍はその夜撤退した包囲うまくいかないのを見てヌルハチは寧遠の主要な穀倉地帯である覚華島攻撃するモンゴル騎兵部隊派遣した覚華島防衛は、後金は舟がなく水兵貧弱なために覚華島侵攻できない信じ込んでいたため、緩いものであった。しかしこの年覚華島周辺海水凍結し後金軍は騎兵隊と共に渡ることができた。攻撃数千人が死に穀倉破壊されたが、覚華島当面明の勢力下に保たれた。 攻撃失敗数日後、寧遠は依然として陥落せず、それどころ後金軍に多大な損失与えていた。ヌルハチ自身砲撃負傷し盛京瀋陽)への撤退決めた

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戦いの流れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 10:26 UTC 版)

八流の戦い」の記事における「戦いの流れ」の解説

1569年7月、元親は3,000常備兵と4,000一領具足率いて岡豊城出陣し安芸郡和食(わじき)に陣を張った対する国虎は5,000の兵を集めて八流に陣を張った長宗我部軍は、軍を二手分け一つ海沿い(福留親政以下兵5000)、一つ内陸(兵2000・元親本隊)から攻撃した海沿い進んだ長宗我軍5000は八流で黒岩越前率い安芸2000激突越前地の利生かして勝てると考えたが、後述のように既に内部崩壊起こし始めていた安芸軍は敗退安芸配下の城に敗走した一方、元親本2000は、安芸軍の背後を突くことに成功安芸本隊3000安芸城追いやった。この戦いの時、安芸方は小谷左近右衛門家臣次々内応したうえ、2,000、3,000ともいわれる一条氏援軍到着しなかったこともあり、安芸軍は内部崩壊起こしていた。 その後安芸城籠城するものの、城内食糧尽きたことや、横山民部井戸に毒を入れたことなどもあり、城兵助命条件開城8月11日に国虎は自害した。 この戦い勝利したことで、元親にとって土佐平定向けて残すは土佐西部支配する一条氏のみとなった

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