戦いの有無と規模に関する考察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:49 UTC 版)
「紀州征伐」の記事における「戦いの有無と規模に関する考察」の解説
『高野春秋編年輯録』によると、10月2日に堀秀政が根来に着陣したのを皮切りに、総大将・神戸信孝以下、岡田重孝、松山庄五郎らが紀ノ川筋に布陣、大和口には筒井順慶・定次父子を配し、高野七口 を塞いで総勢137,220余人に達したとされる。これに対し、高野山側は領内の僧兵や地侍に諸国の浪人を加え、合計36,000余の軍勢を集めたとする。 しかしながら、当時なお多方面に敵を抱えていた織田氏がそれだけの兵力を高野山に投入することができたのかという疑問、また大軍に比してそれを指揮する武将の格が低すぎること、名を挙げられている人物には明らかに当時他方面で働いている者が含まれている ことから、『高野春秋』の記す合戦規模については疑問符をつけざるを得ない。とはいえ、高野攻め自体については各種史料に残る断片的な情報から、虚構とも言いきれない。高野山側の記録よりもかなり小規模な形で戦いがあったとも考えられる。この項目では、基本的に戦いが実在したものとして扱う。
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