戦いの最終段階
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:01 UTC 版)
「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「戦いの最終段階」の解説
ポーランド・リトアニア共和国のセイムは、最終的には大規模な軍事作戦のための資金調達に賛成の票を投じた。ジグムント3世とヴワディスワフはロシアのツァーリの位を得るために1617年4月6日、最後の戦いを起こした。ヴワディスワフは名目上の指揮官であり、全軍の指揮はヘーチマンのホドキェヴィチが行っていた。10月、ドロゴブージとヴャジマの町は陥落しヴワディスワフをツァーリと認めた。しかしヴャジマからモジャイスクの間で攻勢をかけるロシア軍に大敗を喫し、反撃して勝利しモスクワへ進むというホドキェヴィチの計画は失敗した。 ヴワディスワフにはモスクワへ進む十分な軍がなく、さらに以前はロシア人にあったポーランド人を支援する心情が今回は完全に失われていた。ヴワディスワフの侵入に対し、スモレンスク市民は街を占領しているポーランド軍に対する反乱を起こし、ポーランド軍は何とか退路を確保しようと戦った。ロシア軍はスモレンスク奪還のために包囲を行ったが、しかし傭兵集団リソフチツィがこの地に出現したという知らせを受けた後に撤退し、ポーランド軍は救われた。1618年、ヴワディスワフはウクライナ・コサックのペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチュヌィイの軍勢の助けを借り、サハイダーチュヌィイ軍はプティーウリ、ルィーリスク、クルスク、リーヴヌィ、エレツなどを落として1618年9月20日にモスクワ付近でヴワディスワフの軍勢と合流し、9月末にはモスクワを包囲した。しかし、ヴワディスワフの傭兵軍が給料の支払いを要求して攻撃に反対したためモスクワへの総攻撃は行われることがなく、結局モスクワ包囲戦は失敗した。この後休戦のための交渉が始まり、デウリノで1618年に講和条約(デウリノの和約)が結ばれるに至った。
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