ロシアのツァーリ
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「ロシア君主一覧」も参照 モスクワでは、最初にこの称号で呼ばれたのは、ヴァシーリー2世である。ハン国の弱体化が進んでいたことに加えて、1438年 - 1439年のフェラーラ・フィレンツェ公会議にて、教会合同が調印されたことがその根本にあるとされる(のちに正教会側から無効とされた)。モスクワにとっては、合同への調印により、東ローマ皇帝と東ローマ教会は異端に陥ったと見なされた。以後、特に聖職者たちが、東ローマ的な意味でのツァーリの称号をモスクワの君主に使用していく。このように、15世紀後半からモスクワの君主たちがツァーリと呼ばれ、また自称していくにあたり、その起源は大きく2つ存在していたと考えられている。 1480年にモンゴルからの自立を果たしたイヴァン3世は、初めてツァーリの称号を使用し始めた。1547年からはロシア・ツァーリ国の時代となった。イヴァン4世は生神女就寝大聖堂において、ツァーリとして正式に戴冠を行い、外交文書においてもツァーリの称号を用いて各国君主、教皇などと外交交渉を行った。ただし、この段階では「全ルーシのツァーリにして大公」という形でこの称号は用いられており、かつてのローマ帝国、東ローマ帝国を志向した帝国というより、むしろキエフ・ルーシの延長上に自らの国家を位置づけていた。一方、ツァーリの称号にはノヴゴロドやプスコフが含まれるもののキエフやガーリチは含まれなかったため、モスクワのツァーリはキエフの権力を継承していないという説もある。この場合、モスクワ・ツァーリの継承したのはキエフではなく、ノヴゴロドに端を発する北東ルーシの権力であったとされる。 1721年、大北方戦争に勝利して祝賀ムードが高まる中、ロマノフ朝のツァーリであったピョートル1世は元老院(ピョートルの時代に創設)から、「インペラートル(Император)」、「祖国の父」、「大帝」といった称号を認められた。これは古代ローマ帝国の「インペラトル」由来の称号であり、インペラートルの理念はルーシ世界の統治を志向したツァーリの称号とは異なり、ロシア帝国の皇帝という意味合いの強いものであった。上記の西洋・東洋のツァーリを継承したという説に基づくと、ピョートルがインペラートルの称号を用い始めたことは、ロシアがユーラシア国家の枠組みからヨーロッパ国家の枠組みに変貌したことを意味している、と指摘されている。しかし、その後も歴代のインペラートルは、民衆にも馴染みの深いツァーリの称号も併せて使用し続けた。 ツァーリの称号は、1917年のロマノフ朝滅亡まで用いられた。ロシア革命で退位を余儀なくされ後に殺害されたニコライ2世が最後のツァーリであった。 帝政解消後も、ロシアの国内外では、強大な権限を有する旧ソ連およびロシア連邦の政治指導者らに対して「ツァーリ」という文学的形容が用いられる場合がある。また、人物以外でも、飛び抜けて巨大な物を「ツァーリ・○○(○○の「王様」)」の愛称で呼ぶことがある(この場合、民話での「ツァーリ」の用例にしたがって、「皇帝」ではなく「王様」と訳されることが多い)。著名なものは、クレムリンに展示されている巨大な大砲ツァーリ・プーシュカ、巨大な鐘ツァーリ・コロコル、ソビエト連邦が開発した史上最大の核爆弾ツァーリ・ボンバがある。
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