ロシアのニヒリズム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 01:08 UTC 版)
「19世紀後半のロシアの革命組織」の記事における「ロシアのニヒリズム」の解説
最大の悪弊は農奴制であった。貴族の父親は横柄で厳しく、息子は召使や農民に人道的に接した。ロシアに輸入された社会思想は、親子対決の形をとった。 体制の側にある宗教、芸術、社交生活さえ否定された。当時、貴族の子弟は軍隊に入り、きらびやかな制服を着て、形だけの行進をしていた。実際に戦うのは、従僕や民兵であった。また娘は、舞踏会に出て、夜を徹して踊っていた。それが一転して、教育を受けて、医師や教師となり、社会に貢献するのが目的となる。この場合の教育は、人類や社会に貢献する為のものであり、担い手は貴族の子弟だから、立身目的ではない。このストイックさは、時に滑稽な面も見せた。 道で人に会って会釈する事も偽善とされ、つねに気難しい顔をする。美や芸術も、農民や労働者からの搾取の上に成り立っていると否定される。愛のない結婚も否定される。貴族の娘は、華美な衣裳を捨てて、黒一色の地味な衣裳をまとい、わざわざ貧しい暮らしをする。さらに、家出が流行する。家を出た青年男女は、手近なサークルに入り、そこでは男女が対等に、禁欲的に共同生活をした。このサークルでは召使を雇う事は許されず、貴族の令嬢も自分の手で床磨きをした。衣類や装飾品は売れず、若い娘は読書で身を飾った。
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