社会思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/21 00:13 UTC 版)
社会思想(しゃかいしそう、英: Social thought)とは、社会についての思想的考察を指す。
- ^ 河合栄治郎「社会政策原理」『河合栄治郎全集』第3巻、302-303頁。
- ^ 青木育志は河合のモデルを修正し、発展させている。その要点は③社会思想を③A国家の経済政策と③B個人の行動との二つに分けることである。こうすることにより、ソ連社会主義とイギリス労働党政権との違いが鮮明になるからである。前者は③A=社会主義、③B=従属主義であり、後者は③A=社会主義、③B=個人自由主義である。青木育志『河合栄治郎の社会思想体系』春風社、2011年、61-62頁。
- ^ マルクス主義やそれに近い筋も大筋四要素を認めている。ただし、①「世界観・哲学」は社会思想とは別個であり、広義の社会思想は②「現存社会の分析・解剖」、③「社会思想」、④「政治思想」の三要素とする考えが強い。穂積文雄は河合用語の「現存社会の分析・解剖」を「現実の社会に存在する欠陥の認識」に、「社会思想」を「現実の社会を超えた理想の社会のビジョン」に、「政治思想」を「前二者をつなぐ架け橋」「理想ビジョン実現の道」に言い換えている。穂積文雄『近代社会思想史』ミネルヴァ書房、1965年、26-27頁。
- ^ 日本のマルクス主義政党は二十世紀最後半において、用語を変更し、主として政治思想を変更しているかに見えるが、マルクス、エンゲルスがどう考えていたかの立場から分析すれば、こうならざるをえない。河合栄治郎「社会政策原理」『河合栄治郎全集』第3巻、339-404頁。青木育志『河合栄治郎の社会思想体系』春風社、2011年、164-166頁。
- ^ 河合はイギリス労働党の思想はトーマス・ヒル・グリーンの流れを汲んで、ほとんどが理想主義的原理に立つとしたが、現実にはハロルド・ラスキやバートランド・ラッセルなど現実主義的原理に立つ者もいる。このことを指摘したのは何人かいるが、最近では青木育志である。青木育志『河合栄治郎の社会思想体系』春風社、2011年、126-127頁。
- ^ 河合栄治郎「社会政策原理」『河合栄治郎全集』第3巻、423-439頁。
- ^ 河合の社会思想史としての著作としては、次がある。『社会思想史研究第一』(1923年)『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』(1930年)『社会思想家評伝』(1936年)『英国社会主義史研究』(1938年)などがある。それぞれ『河合栄治郎全集』第3巻、第1-2巻、第7巻、第5巻に収録。
- ^ 高島善哉、水田洋、平田清明『社会思想史概論』岩波書店、1962年、4-7頁。
- ^ この立場では、社会科学者が考える社会像の歴史ということになりかねない。極端に言えば、社会科学史である。社会科学者でない者が社会について考えたことは考察の対象外になる。ちなみに新明正道は社会学者である。
- ^ この立場では、哲学史で論ずべきもののうち、社会についての部分のみを集めた、哲学史の一分野となる。ちなみに淡野安太郎は哲学者である。
- ^ 第一としたのは後に第二の著作を予定していたからである。この書の内容はイギリスの一定時の社会思想である。つまりアダム・スミスからJ・S・ミルに至る時期のみを扱っている。
- ^ 本書は副題にもあるとおり思想の社会史である。
- ^ 本書は自由主義、マルクス主義にまったく触れていない。
- ^ 本書は副題にもあるとおり、有名な哲学者、社会科学者の社会観、社会像を史的展開している。一種の社会科学史となっている。
- ^ 本書は副題にあるとおり正義論の歴史となっている。
- ^ 本書は類書にはなくキリスト教の観点から描いている。
- 1 社会思想とは
- 2 社会思想の概要
- 3 社会思想史で採り上げるべき事項
社会思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 14:05 UTC 版)
シュメールにおいて女性は他の文明よりも高い地位を達成したが、文化は主として男性により支配され続けた。史家アラン・I・マーカスいわく「シュメール人は、個人の人生においてやや厳しい展望を持っていた」。 あるシュメール人は「私は、涙、悲嘆、激痛、憂鬱とともにある。苦痛が私を圧倒する。邪悪な運命が私を捕らえ、私の人生を取り払う。悪性の病気が私を侵す」と記している。また別のシュメール人はこう書いている。「なぜ、私が無作法な者として数えられるのか?食べ物はすべてあるのに、私の食べ物は飢餓だ。分け前が割り当てられた日に、私に割り当てられた分け前が損失をこうむったのだ」
※この「社会思想」の解説は、「シュメール」の解説の一部です。
「社会思想」を含む「シュメール」の記事については、「シュメール」の概要を参照ください。
社会思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 03:17 UTC 版)
「バートランド・ラッセル」の記事における「社会思想」の解説
ラッセルの平和主義は、現実主義的な平和主義であると特徴づけられる。そのときそのときの情勢の下で、最悪と思われるものと戦い、最良と思われる手段で平和の実現を目指すといえる。彼の平和主義への傾倒は、1901年、ボーア戦争中に始まるとされるが、彼が活発に社会的な発言、著作を出版するようになったのは第一次世界大戦からである。 第一次大戦中、ラッセルは徹底的な非戦論を主張し、ケンブリッジの教授職を追われ、投獄されている。第一次大戦後、ラッセルは戦争に熱狂した民衆の姿に驚きを覚え、平和維持のためには民衆の啓蒙と社会制度の改革から始める必要を痛感した。この彼の政治的スタンスから、社会主義にシンパシーを感じ労働党に入党する。 当時、社会主義に傾倒していた知識層は、フェビアン社会主義で有名なシドニー・ウェッブを筆頭に、マルクス主義にシンパシーを感じソビエト連邦に好意的であったが、ラッセルはそのような風潮とは一線を画し、ソビエトロシアに対して批判的な主張を大いに含む著作『ロシア共産主義』The Practice and Theory of Bolshevismを著している。 同書において、ラッセルはレーニン及びトロツキーの教条主義的なマルクス主義の信奉に厳しい視線を向けている。 ところが、第二次世界大戦においては、第一次世界大戦に対する反戦の態度とは正反対にナチズムに対抗するために徹底した抗戦を主張するようになった(アインシュタインも彼と同じく、第一次世界大戦の際には徹底的に反戦を主張し、青年に対して兵役拒否をするようにさえ訴えていたにも拘わらず、第二次世界大戦では「最早、兵役拒否は許されない」と発言するなど、変節している)。第一次大戦における彼の非戦論との違いから、ロマン・ロラン等から「変節」であると厳しく批判された。ラッセルは批判に対して「世界でもっとも重んずべきは平和だと考えているという意味では、私は依然として平和主義者である。けれども、ヒトラーが栄えているかぎり、世界に平和が可能であるとは考えられないのだ」と弁明した。 第二次世界大戦直後は、世界政府樹立とそれによる平和維持をめざした。1940年代末から1950年代始めにかけて、アメリカの持つ原子爆弾という超兵器の抑止力によってソ連を押さえ込むことで実現することを構想し、西側諸国の核保有による東側諸国との対抗を説き、労働党の委託を受け精力的に講演を行った。 しかし、その構想は、ソ連の核兵器開発の成功、アメリカ・トルーマン大統領による水素爆弾開発計画(→エドワード・テラー)によって破綻する。米ソによる水爆戦による世界の終末というものが一挙に現実味を帯びたため、ラッセルは、その最悪のシナリオを回避するため、核兵器廃絶の運動に身を投じる。 1955年7月9日、「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表。この宣言は、ラッセルが起草し、アルベルト・アインシュタインが署名を行ったものである。アインシュタインがその署名を行ったのは、彼の死の1週間前のことであった。このラッセル・アインシュタイン宣言は、パグウォッシュ会議(第1回開催1957年7月6日 - 7月10日)につながる。 1961年には、百人委員会を結成し、委員長に就任。英国の核政策に対する抗議行動を行った。同年9月、百人委員会による国防省前での座り込みの際に逮捕され、生涯2度目となる懲役刑を受けることになる。 ベトナム戦争に対しても、ラッセルは厳しい批判行動を展開した。サルトルらとともに、アメリカの対ベトナム政策を糾弾する国際戦争犯罪法廷を開廷する。 その後も、1970年、97歳でこの世を去る直前まで、精力的に活動した。
※この「社会思想」の解説は、「バートランド・ラッセル」の解説の一部です。
「社会思想」を含む「バートランド・ラッセル」の記事については、「バートランド・ラッセル」の概要を参照ください。
社会思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 10:26 UTC 版)
民主主義の擁護にあたって、デューイは学校と市民社会の二つを根本要素とみなし、実験的な知性と多元性(plurality)の再構築が求められるとした。デューイは完全な民主主義は、選挙権の拡大によってのみ実現されるのではなく、市民、専門家、政治家らによる緊密なコミュニケーションによって形成される「十全な形」での世論(Public opinion)も不可欠であるとした。
※この「社会思想」の解説は、「ジョン・デューイ」の解説の一部です。
「社会思想」を含む「ジョン・デューイ」の記事については、「ジョン・デューイ」の概要を参照ください。
社会思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 01:50 UTC 版)
人間の行為を制約したりある方向へ誘導したりするようなウェブサイトやウェブコミュニティの構造、あるいは実際の社会の構造もアーキテクチャと呼ぶ。 ジョージ・リッツァは著書『マクドナルド化する社会』において、アーキテクチャの具体例としてファーストフード店の硬いイスをあげている。客を長居させず、それによって回転率を上げるような設計になっている。 ローレンス・レッシグは、著書『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』において、人間の行動を制約するものとして、法律、規範、市場、アーキテクチャの4つを挙げた。 取締りと刑罰によって行動を制約する(法律)、道徳を社会の全員に教え込んで行動を制約する(規範)、課税や補助金などで価格を上下させて行動を誘導する(市場)といった手法のほかに人間の行動を制約する手法として、社会の設計を変えることで社会環境の物理的・生物的・社会的条件を操作し人間の行動を誘導するという、「アーキテクチャによる制約」が考えられる。社会の仕組みを変え、ある選択肢を選びやすくする・ある行動を採ることが不快になるようにするといった環境に変えることにより、社会の成員が自発的に一定の行動を選ぶように誘導し、取り締まりを行ったり子供たちに規範を教育するよりも安いコストで社会を管理することができる。
※この「社会思想」の解説は、「アーキテクチャ」の解説の一部です。
「社会思想」を含む「アーキテクチャ」の記事については、「アーキテクチャ」の概要を参照ください。
社会思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 08:12 UTC 版)
「チャールズ・ダーウィン」の記事における「社会思想」の解説
ダーウィンは当時の多くの人と同じように人種平等主義者ではなく、また女性は能力が劣るとも考えていた。しかし一般的な差別主義を共有してはいなかった。人種間の生物学的な差異は非常に小さいので、人種を異なる生物種と考えるべきではないと主張していた。奴隷制度に反対し、ビーグル号艦長のフィッツロイと衝突したのも奴隷制度に対する意見の相違だった。フィッツロイが「(奴隷たちが)現在の状態に満足していると答えた。だから彼らは奴隷でいて幸せなのだ」と言ったのに対し、「主人の前でそう言ったのだから、本心かどうか分からない」と答えフィッツロイの怒りを買った。ブラジルでは主人による奴隷虐待の場面に遭遇しており、ブラジルを出航するときに、奴隷虐待を二度と見ることがないのがうれしく、この国は二度と訪れないだろうと書き残している。帰国後には奴隷解放運動を支援した。 また「いわゆる人種を異なる種としてランク付けする」ことに反対し、被支配国の人々を虐待することに反対した。当時の作家は自然選択を自由放任主義の弱肉強食の資本主義、人種差別、戦争、植民地主義と帝国主義など様々なイデオロギーに用いた。しかしダーウィンの自然に対する全体論的な視点は「一つの存在の上に他が依存して存在する」であって、ピョートル・クロポトキンのような平和主義、社会主義、自由主義的な社会改革、無政府主義と協力の価値を協調した。ダーウィン自身は社会政策が単純に自然の中の選択と闘争の概念から導かれてはならないと主張した。「社会ダーウィニズム」と言う用語は1890年頃から使われ出したが、1940年代にリチャード・ホフスタッターがウィリアム・サムナーのような改革や社会主義に反対した自由放任の保守主義を攻撃するために使い出すと軽蔑的な意味合いを持つようになった。それ以来、彼らが進化から導き出される道徳的結論と考えることに対して用いられる罵倒語となった。 ダーウィンの言葉として「最も強い者が⽣き残るのではなく最も賢い者が⽣き延びるのでもない。 唯⼀⽣き残ることが出来るのは変化できる者である。」という言葉が紹介されることがあるが、ダーウィン自身の発言や『種の起源』に該当する言葉はなく、経営学者メギンソンの解釈が流布したものである。
※この「社会思想」の解説は、「チャールズ・ダーウィン」の解説の一部です。
「社会思想」を含む「チャールズ・ダーウィン」の記事については、「チャールズ・ダーウィン」の概要を参照ください。
「社会思想」の例文・使い方・用例・文例
- 社会思想の醗酵
- インターナショナリズムという政治社会思想
社会思想と同じ種類の言葉
- 社会思想のページへのリンク