社会思想の批判
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社会思想の批判をした論文には次がある。 河合栄治郎「国家社会主義の批判」(『帝国大学新聞』1932年1月1日)(1) 国家社会主義批判赤松克麿の思想には、国家観の誤謬、国民主義と国家主義の混同、実現方法の不明確が指摘できる。 (2) 国家主義と社会主義の関係i) 国家主義は実体不明なる思想であるから、社会主義と結合することは危険にして、改革は清算される。ii) 国家主義は一定点に停止する。改革の不徹底を攻める社会主義と衝突する。iii) 社会主義実現は国家主義より是認されない。 (3) 国民主義と社会主義の関係国民主義により他国への侵略と防備を行うと、軍備充実拡大となり、軍事費拡大となり、労働者のための出費抑制となり、けっきょく社会主義は実現できない。 河合栄治郎「国家社会主義台頭の由来」(『帝国大学新聞』1932年2月29日)国家社会主義は反資本主義を社会主義と誤認して結合しようとした。だから国家主義と社会主義は結合できない。 長谷川如是閑「資本主義・帝国主義・日本主義」(『経済往来』1932年7月1日)「二十世紀の日本主義の内容は依然として、原始的「神国」説の文字通りの伝承である」。「千年来発展のない、すなわち歴史を持たない思想は、これを思想と呼ぶべきものでは」ない。 矢内原忠雄「日本精神の懐古的と前進的」(『理想』1933年1月後『民族と平和』に収録される)宇宙の道義は国家以上のものである。現実の国家と天皇は宇宙の道義に従わねばならない。天皇の神性よりも造物主の神性の方が上である。 矢内原忠雄「悲哀の人」(内村鑑三記念講演会での講演が1933年4月『通信』記載される)天皇絶対の国家至上主義による日本の政策は虚偽に基づいている。悲哀の人とは虚偽が満ち溢れていることを見抜き、それを公言できる人である。「国家的利欲および国家的虚偽は極めて悪思想なりと言わねばならない。しかも利欲の正義的仮装は罪の極致である」。 河合栄治郎「五・一五事件の批判」(『文藝春秋』1933年11月11日)(1) 思想形式の問題=実行者の i) 理想主義は推敲されていない。ii) 日本主義は「独りよがりの誇大妄想」である。iii) 復古主義は複雑な社会情勢を単純化しやすい。 (2) 思想内容の問題=実行者の i) 国家主義、ii) 天皇政治、iii) 反議会主義、iv) 軍備充実主義、v) アジア主義、vi) 反資本主義……「この社会改革論は中産階級と農民とを主とする社会改良主義である」。これでは労働者問題は解決されないし、農村のみを資本主義から防止することは不可能である。「その意図する目的さえ水泡に帰するのほかあるまい」。 河合栄治郎「マルキシズム、ファッシズム、リベラリズムの鼎立」(『中央公論』1934年2月) 河合栄治郎「国家主義の批判」(『改造』1934年10月)(1) 国家主義の理論的欠陥=価値原理として欠陥を有する。=i) 国家主義は最高の原理ではない。ii) 国家主義は一般国民が生活に依拠する原理ではない。 (2) 国家主義の弊害=国家主義は i) 保守主義に陥る。ii) 道徳原理に背反する。iii) 武力崇拝に陥る。iv) 物質主義である。v) 弾圧独裁政治に傾きやすい。 (3) 国家主義に代わるべきものは理想主義的個人主義である。
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