ちゅうおうこうろん〔チユウアウコウロン〕【中央公論】
中央公論
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『中央公論』(ちゅうおうこうろん)は、1887年に日本で創刊され、現在も発行されている月刊総合雑誌である。1999年までは中央公論社(旧社)、以降は中央公論新社が発行する。
注釈
出典
- ^ 平井金三における明治仏教の国際化に関する宗教史・文化史的研究吉永進一ほか、科研報告書、平成 16年度 ~18年度
- ^ “長寿”雑誌と雑誌の起源、出版科学研究所、2008年1月10日。
- ^ a b c 廣瀬誠『図書館と郷土資料』桂書房、1990年初版、1991年再販、181-182頁。
- ^ 下川耿史『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p.384 河出書房新社 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
- ^ 生きてゐる兵隊掲載の中央公論を発禁『東京朝日新聞』(昭和13年2月19日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p11 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 発行人・編集人ともに起訴される『東京朝日新聞』(昭和13年8月5日夕刊)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p11
- ^ 中央公論・改造両社解散の裏の弾圧判明『朝日新聞』(昭和20年10月9日)『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p762-p763
- ^ 粕谷一希『中央公論社と私』より
- ^ 佐藤都「日本の総合雑誌3誌の数量・内容分析からみる日本人の中国に対する関心の変遷」『Sauvage : 北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院院生論集』第8号、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院院生論集制作委員会、2012年3月、100-108頁。p100
- ^ 竹内 2011, p. 81.
- ^ 竹内 2011, p. 64.
- ^ a b 竹内 2011, p. 82.
- ^ 竹内 2011, p. 117.
- ^ 竹内 2011, p. 119.
- ^ a b 竹内 2011, p. 446.
- ^ 竹内 2011, p. 447.
中央公論(戦前)
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1899年(明治32年)1月に『中央公論』と改題した。次第に宗教色はなくなり、小説や評論などを掲載するようになった。明治末に入社した滝田樗陰は、芥川龍之介や菊池寛をいち早く起用した。 大正期には吉野作造の政治評論をはじめ、自由主義的な論文を多く掲載し、大正デモクラシー時代の言論をリードした。また、小説欄は新人作家の登竜門であった。 マルクス主義が流行し、1919年(大正8年)、より急進的な『改造』が発刊されると、中道的な路線となる。このころには、中央公論に作品が掲載されることは、人気作家の仲間入りと見なされるまでになった。 第二次世界大戦中、横浜事件が起こる中で、1944年、軍部の勧告により『改造』と共に廃刊される。2月には編集方針が『改造』とともに左翼的であったとの理由で中央公論社からは小森田一記編集長ほか7人が検挙された。小森田は神奈川警察署の16畳の監房に26人が押し込められる劣悪な環境で1年7か月間勾置される間に起訴された。逮捕者は戦後の1945年9月15日、左翼的意図のもとに雑誌を編集したという理由で禁錮2年、執行猶予3年の刑を言い渡された。公判の後、判事は「近々恩赦もある、この辺で我慢してくれ」と申し入れたという。
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