長嶋茂雄とは?

ながしま‐しげお〔‐しげを〕【長嶋茂雄】

[1936〜 ]プロ野球選手監督千葉の生まれ立教大では東京六大学野球当時記録である8本塁打放つ昭和32年(1957)巨人入団翌年本塁打打点の二冠を獲得新人王受賞国民的人気集めミスタージャイアンツ」と呼ばれる。特に王貞治とのコンビはON(オーエヌ)砲と呼ばれ、一世風靡(ふうび)。引退後も監督として同球団を5回のリーグ優勝、2回の日本一に導いた。平成17年2005文化功労者平成25年2013国民栄誉賞受賞


長嶋茂雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/31 06:24 UTC 版)

長嶋 茂雄(長島 茂雄[注 1]、ながしま しげお、1936年昭和11年〉2月20日 - ) は、千葉県印旛郡臼井町(現・佐倉市)出身の元プロ野球選手内野手)・プロ野球監督読売ジャイアンツ(巨人)終身名誉監督日本プロ野球名球会顧問。ジャイアンツアカデミー名誉校長。


注釈

  1. ^ 1993年の2度目の監督就任以前まで、「嶋」は常用漢字ではないので、常用漢字への置き換えを原則とした新聞などの活字メディアでは「長島」姓の表記が使われることが多かった(なお『巨人の星』や『ドカベン』などの創作物などの多くは長島表記であった)。
  2. ^ 『姓氏』(著者:丹羽基二、監修:樋口清之)p237.によると、長嶋氏は桓武平氏良文流千葉氏の末裔と述べている。
  3. ^ 京成電鉄は1947年頃までは後に入団する読売ジャイアンツの筆頭株主でもあった。その京成電鉄では1977年末に自社で発売した「昭和五十三年成田山参拝記念乗車券」に第1次巨人監督時代の長嶋を起用している。
  4. ^ 砂押から特別扱いされていた長嶋は先輩から嫌われ、事あるごとに表向きは指導の名での暴力という形でいじめを受けていた。連帯責任で野球部の同級生全員が被害に遭うことも少なくなかった。
  5. ^ 近藤唯之は自著『プロ野球 運命の出会い』 (2006) で、「長嶋は2年生になった直後、東長崎グラウンド(当時の立教大学野球部グラウンド)で練習中、4年生の先輩から因縁をつけられて胸を殴られ、これに激昂してバットを持ち出し、4年生たちに喧嘩を挑んだ。2年生の同級生たちも長嶋に加勢した一方、4年生たちも全員がバットを持ち出して乱闘になりかけたが、最終的には4年生が先にバットを収めた。先に手を出した4年生は学校側から厳重説諭を受けた一方、長嶋は『退部、3か月間の出場停止、合宿所“智徳寮”を出る』など、厳しい処分案も出たが、当時の長嶋は父が死去するなど、家が貧しかったことや、きわどいバット事件だったことから『合宿所智徳寮で謹慎1週間、毎晩1時間にわたる4年生からの説教』という処分に落ち着いた」と述べている[16]。一方、坪内道典は自著『風雪の中の野球半世記』 (1987) で「砂押監督のスパルタに嫌気がさしたからのようだ」と述べている[17]
  6. ^ 2人はともに「プロでやるなら一緒に」と誓い合っていた[18][19]
  7. ^ 杉浦が中日に入団しようとした理由について、長嶋や杉浦にとって立教大学の先輩に当たる坪内道典(中日OB)は自著『風雪の中の野球半世記』 (1987) で「(杉浦の)地元球団だったからだろう」と推測している[17]ほか、元中日球団代表・高田一夫(任期:1961年 - 1964年)は「杉浦は『愛知県出身だから、中日ファンだ』と言っていた」と証言している[20]。後に杉浦は坪内から真偽について問われ「そんなことがありましたねえ」と話した[19]ほか、長嶋も高田と親交のあった近藤唯之からこの件について問われて動揺を見せている[20]
  8. ^ 坪内は自著で、杉浦と長嶋が中日の球団事務所を訪れて入団を願い出た出来事について「1955年9月、杉浦・長嶋は2人で東京・西銀座の中日球団事務所を訪れ、応対した中村三五郎球団代表に対し『中日に入団させてほしい』と申し出たが、中村から諭されて帰された」と述べている[17][19]。一方、近藤は親交のあった高田一夫(当時:球団代表代行)の「2人は2年生の暮れごろ、名古屋の中日本社に突然がやってきて『中日に入団させてほしい』と申し出た。しかし、球団代表代行を務めていた自分が『とにかく卒業してからこい。大学生は勉強が本分なんだから』と説教した」という証言を取り上げている[21]
  9. ^ この逸話を取り上げた杉井輝応は、長嶋と親交のあった鶴田浩二について取り上げた自著『鶴田浩二』 (1997) で「(もし2人の中日入団が実現していたら、杉浦が入団した)南海の御堂筋パレード(優勝パレード)は名古屋の広小路(優勝)パレードになっていたかも知れない。(長嶋が入団した)巨人のV9は中日のV9になっていたかも知れない。中日は惜しい逸材を逃したものだ」と述べている[22]。また、近藤 (2006) は「中日は長嶋と杉浦を自分から無料でいいというのに、とり逃がしてしまった」と[20]、坪内 (1987) も「(もし中日に入団していれば)長嶋は『ミスター・ドラゴンズ』になるところだったが、中日は大魚(後に球史に残るスーパースターになった2人)を2匹逃した。中村代表は1956年ごろ、このことを悔しがってみんなに話していた」と述べている[23]。中日球団の親会社である中日新聞社が発行する『中日スポーツ』の記者・増田護 (2020) は「巨人と南海でともに新人王になる2人(長嶋と杉浦)をそのまま入団させていれば間違いなく中日、いやプロ野球の歴史が変わっただろう。そこまでのスターになるとは思っていなかったのかもしれないが、筆者は迷える大学生を説教して追い返した中村代表に敬服する。」と述べている[19]
  10. ^ この記録を前に持っていたのは、1930年宮武三郎慶大阪急軍初代主将としても活躍。)、1936年呉明捷早大。2014年の台湾映画KANO 1931海の向こうの甲子園』では準主役的な存在として描かれた。)で共に7本塁打を打っていた。
  11. ^ 大映スターズオーナーの永田雅一が卒業後の獲得を目指して大学1年生の時に長嶋と実家で面会し「優勝するチームで野球がしたい」と言われたことがNHKテレビの『その時歴史が動いた』(2005年2月9日放送分)で紹介されている[25]
  12. ^ 阪神タイガースのスカウト青木一三は大学を中退させての獲得に向けて本人や家族と交渉した[26]が、藤村排斥事件を受けて頓挫している。
  13. ^ 広島カープも長嶋を広島観光に誘うなどしていた。
  14. ^ 長嶋は、父が亡くなってから行商をするなどして家計を支えた母親を非常に尊敬しており、母親の懇願を断ることが出来なかったという。
  15. ^ このケースでは、長嶋は二塁を踏んだ瞬間に一塁を踏み直すことが許されなくなり(公認野球規則7.10(b)(2))、投手がボールを保持してプレーがかかったのち、投手が最初の投球をする前に一塁手の藤井弘が送球を要求し、鵜狩から送球を受けて触塁しアピールし、一塁塁審の竹元勝雄がアウトを宣告した[29]。この場合、投手に補殺、一塁手に刺殺が記録され、記録上投手ゴロと同じためこのように伝えられている。
  16. ^ 1946年から1960年までの正式な球団名称は「大阪タイガース」であったが、この間も略称として「阪神」が、通称として「阪神タイガース」が使われていた。
  17. ^ 外様を含めると2004年に小久保裕紀が41本塁打を打ち、巨人軍史上初の右打者の40本塁打を達成。2010年にはアレックス・ラミレスが49本塁打を打ち小久保の記録を更新及び巨人の外国人右打者のシーズン最多本塁打となった。
  18. ^ なお、この年以降巨人の右打者の首位打者獲得は2009年にアレックス・ラミレスが、日本人右打者に限定すれば2011年に長野久義が獲得するまで非常に長い年数が経っていた。
  19. ^ 戦前にはフィリピン人のアデラーノ・リベラが1年間ではあるが在籍した。同じく戦前に在籍したヴィクトル・スタルヒンはロシア系であるが日本の学校への在学歴がある。「学歴まで含めて外国で育った非日系の外国人選手」としてはリベラに次いで2人目となるが、戦後に限定すれば初めてとなる。
  20. ^ 現役引退前後の頃にも同様の発言をしたことがあり、「野球というスポーツは、人生そのものだと僕は思います。失意と得意、成功と失敗が常に背中合わせになっています。勝者が笑う陰には、常に敗者がいます。栄光の陰に、数知れぬ挫折があります」と語っている(沢木耕太郎著「三人の三塁手」)。
  21. ^ 後に長嶋は阿川との対談で、「(意識は)なかった。もう(状態は)上中下の下で、一番悪かったですからね。その下は死ですから」と語っている。阿川、2011
  22. ^ 長嶋は一茂の判断について「一番悪い状態の時でしたからね」と理解を示しながら、誰が何と言ってもアテネへ行くつもりがダメになった事へのショックと孤独を語っている。阿川、2011
  23. ^ 同プロジェクトは2010年まで毎年1月に開催されていた。
  24. ^ この内容が2011年に単行本となっている。阿川、2011
  25. ^ 庵原英夫『正しい技術 勝つ作戦のコツ 野球ルール』(有紀書房、1987年) p64-65。公認野球規則の6・02a(打者の義務)では打者は自分の打順がきたら速やかにバッタースボックスに入って打撃姿勢をとらなければならないとされているが、「バットを持って」とは明記されていない。このときの球審は長嶋がバットを持っていなくても素手で構えたため打撃姿勢をとったものとみなし、四球の判定を下しているが、バットを持っていなければ投手の投球を打ち返すことは不可能であり、庵原は長嶋のこの行為に対して、球審によっては打撃姿勢をとっていないとみなす可能性があることを同書内で指摘している。なお打者が打撃姿勢をとろうとしない場合、球審は投手に投球を命じ、どのような投球であってもストライクを宣告することができる。このため、もし球審が打撃姿勢をとっていないとみなした場合、素手で構えて以降の投球は全てストライクとなり、ストライクを3回宣告されるまでに打者が打撃姿勢を取らなかった時には、アウトを宣告される。
  26. ^ このことは広岡達朗堀内恒夫が証言している。
  27. ^ ビートたけしは長嶋の守備について、「長嶋が登場するまでは、巨人の守備になるとみんな便所にいってたんだよ。つまり守備は見る必要がないって思ってたんだ。でも長嶋が登場してからは、あの守備が見たくてさ。便所すら行けなくなっちゃったよ(笑)」と述べている。
  28. ^ 引用中、( )内は記者による描写。当時は前年の安保闘争の記憶が生々しい時期で(長嶋もインタビューで「昨年の安保のときから(引用者注:政治面に)興味もつようになったんです」と発言している)政権交代をうかがわせる雰囲気があった。
  29. ^ 玉木正之の『プロ野球大事典』(1990年、新潮文庫)では、東急フライヤーズ一言多十が映画『七人の侍』を「七人のマチ」と言ったエピソードから、多くのコラムニストが他のプロ野球選手にこれを付会させたエピソードを「創作」し、その「被害」が最も多いのは長嶋であろうと記されている(P470)。同書には1979年のあるエッセイで、長嶋が同じ黒澤明監督の映画『野良犬』を「ノヨシケン」と呼んだと書かれている例が紹介されている(P441)。
  30. ^ ただし、板東のこの行為は巨人ファンから批判を受け、加えて当日の放送ではこれ以外にも複数の問題を起こしていたこともあり、板東は同年中にCBCの解説者契約を打ち切られた。本人の項も参照。
  31. ^ 長嶋の編著「野球は格闘技だ」にも同内容のコメントを寄せている。なお、この話は石原を通じて役者内でも広がったとされ、勝新太郎も同著内でその話に触れたコメントを寄せている。
  32. ^ 長嶋は不振に陥った入団2年目の山本一義を自宅に呼び寄せ、自らの試合前ルーティーンを山本に見せることで激励をしたとされる。その時の様子を山本は「朝十時に家に着くと、長嶋さんは散歩から帰って柔軟体操をしているところだった。長嶋さんは私を一瞥すると、『そこに座ってろ』という。<中略>ノートを出してきて『今日の先発は大石かな、大羽かな』と一人ごちて、この二人と前回対戦した時の配球を調べている。『1球目がカーブで、2球目がシュートか』とノートを読んで予備知識を入れたかと思えば、スクッと立ち上がって球場に行く準備を始めたのであった。<中略>正直なところ、"動物的勘"や"天性の資質"でプレーすると言われていた長嶋さんは、毎日遊び惚けて野球をやっているのかと思っていた。とんでもない間違いだった。あの頂点に立っている長嶋さんは、毎日試合前に必要な準備をして臨んでいるからこそ、あの光り輝くプレーができているんだということに気づいた時、ハッとさせられ、深く反省させられた」と回想している(「わが人生、わが野球道(Vol.15)」著・山本一義 月刊The Carp 1992年5月号(No.54))。

出典

  1. ^ 読売巨人軍公式サイト”. www.giants.jp. 2021年1月23日閲覧。
  2. ^ プロ野球オーナーズリーグ長嶋茂雄2012第2弾:第10弾レジェンド)
  3. ^ a b c d e f g h 第13回災害の年に向き合う日本の心はセコム、2011年10月3日、『おとなの安心倶楽部』
  4. ^ 日本テレビ知ってるつもり?!』藤村富美男、1998年12月6日放送での長嶋のインタビュー、読売新聞連載「時代の証言者 長嶋茂雄」、2006年、時代の証言者・長嶋茂雄 : 特集 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)[リンク切れ]
  5. ^ 小林信也著『長嶋茂雄 夢をかなえたホームラン』1992年、39頁。
  6. ^ a b 『100人の20世紀(下)』(61)長嶋茂雄[西村欣也執筆]2001年、朝日文庫、p.111
  7. ^ 沢木耕太郎著「三人の三塁手」(『敗れざる者たち』収録)
  8. ^ 「アテネ五輪野球日本代表 監督・長嶋茂雄の闘い」佐藤 安弘著 日刊スポーツ出版社
  9. ^ 2018年12月にフォト・パブリッシングが発行した、生田誠による著書「京成電鉄古地図さんぽ」京成臼井駅のページに記載あり。
  10. ^ 『100人の20世紀(下)』(61)長嶋茂雄[西村欣也執筆]2001年、朝日文庫、p.107
  11. ^ a b 『100人の20世紀(下)』(61)長嶋茂雄[西村欣也執筆]2001年、朝日文庫、p.107-108
  12. ^ 『100人の20世紀(下)』(61)長嶋茂雄[西村欣也執筆]2001年、朝日文庫、p.108
  13. ^ a b 『100人の20世紀(下)』(61)長嶋茂雄[西村欣也執筆]2001年、朝日文庫、p.109
  14. ^ 長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』日本経済新聞 2009年 40頁
  15. ^ 長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』日本経済新聞 2009年 64頁
  16. ^ 近藤唯之 2006, pp. 54-56.
  17. ^ a b c d e 坪内道則 1987, p. 162.
  18. ^ 坪内道則 1987, p. 163.
  19. ^ a b c d e f 増田護「長嶋さんの中日入りを思いとどまらせた男 立教大のミスターと杉浦忠さんを諭した球団代表がいた【コラム】」『中日スポーツ中日新聞社、2020年4月12日。2020年11月21日閲覧。オリジナルの2020年11月21日時点におけるアーカイブ。
  20. ^ a b c d 近藤唯之 2006, p. 58.
  21. ^ a b 近藤唯之 2006, pp. 57-58.
  22. ^ 杉井輝応 1997, p. 244.
  23. ^ 坪内道則 1987, pp. 162-163.
  24. ^ 『立教大学野球部 - セントポール 自由の学府』(ベースボール・マガジン社、2015年11月) 17頁。ISBN 978-4583109428
  25. ^ その時歴史が動いた 第207回 プロ野球を変えたホームラン”. 日本放送協会 (2005年2月). 2010年1月12日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年5月21日閲覧。
  26. ^ 『ここだけの話 プロ野球どいつも、こいつも…』ブックマン社、1989年、P176 - 178
  27. ^ 『南海ホークス四十年史』(1978年)P.163
  28. ^ a b 【9月19日】1958年(昭33) ミスター、幻の28号本塁打でトリプルスリーを逃す”. スポーツニッポン (2007年9月19日). 2015年9月15日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年9月12日閲覧。
  29. ^ カープきょうは何の日 1958年9月19日」『中国新聞日刊』第45356号中国新聞社広島県広島市中区、2020年9月19日、スポーツ第17版、18面。2020年9月19日閲覧。
  30. ^ 松下茂典著「あの日、野球の神様は“背番号3”を選んだ - 天覧試合昭和34年6月25日」
  31. ^ 【ありがとう八十年(174)】長嶋茂雄、かなわなかった夢 幻の日本人野手大リーガー第1号
  32. ^ 長嶋茂雄や原辰徳、あのイチローにもまさかの代打…!? ファンも驚愕した“世紀の交代劇””. BASEBALL KING (2020年10月13日). 2020年12月19日閲覧。
  33. ^ 阪神・吉田義男、退団の理由を語る/週ベ回顧
  34. ^ 長嶋、2009年、p184
  35. ^ 長嶋、2009年、p182
  36. ^ 長嶋、2009年、p183
  37. ^ 報知新聞1974年10月13日1面「中日に敬意 川上 体力の限界 長嶋」
  38. ^ a b 報知新聞1974年10月15日1面「別れの曲に送られて 『やめないで』に思わず涙」
  39. ^ 長嶋、2009年、p190
  40. ^ スポーツニッポン1974年10月15日1面「秋晴れ後楽園に惜別5万人大観衆」「17年目の男泣き。“脚本”になかったグラウンド一周」、3面「泣いて!笑った!万感胸に・・さわやかな記者会見」
  41. ^ 長嶋監督解任劇は割烹料理店から始まった 2011.03.29 zakzak
  42. ^ 球界因縁のライバル(19) 長嶋VS川上(上) リアルライブ 2009年6月23日 15時00分
  43. ^ “長嶋、森「覇道」野球を敵対視”. 夕刊フジ. (2001年1月29日) 
  44. ^ 週刊現代2020年6月27日号、昭和の怪物 研究59 V9巨人の名監督、「非情」が似合う男の内心とは 川上哲治 勝つことで得たもの、失ったもの、159頁
  45. ^ 『読売新聞』1999年11月27日付
  46. ^ スポーツニッポン・柴田勲の我が道2015年8月25日
  47. ^ スポーツニッポン・柴田勲の我が道2015年8月26日
  48. ^ 『読売新聞』1999年11月27日付
  49. ^ プロ野球レジェンドが語るあの日、あのとき、産経新聞出版、P339、2015年
  50. ^ 野村色に染まる巨人 iza(産経新聞) 2012年2月14日(2012年2月17日時点のアーカイブ
  51. ^ 張本勲著、プロフェッショナル真の仕事とは何か:勝者のための鉄則55、日之出出版、2013年、P199-200
  52. ^ プロ野球党(日本スポーツ社、1977年) 広岡へのインタビュー
  53. ^ 石塚紀久雄著、完全版 長嶋茂雄大事典、1993年、P22,PHP研究所
  54. ^ 巨人軍 あの日、あの時、あの事件打たれて「ホラ見てみい」士気下げた長嶋監督のベンチワーク 日刊ゲンダイ 2015年2月11日
  55. ^ 青田昇「じゃじゃ馬一代 遺稿青田昇自伝」(1998年 ザ・マサダ)
  56. ^ a b 織田淳太郎 「20世紀完全版長嶋茂雄大辞典」(2001年 新潮OH!文庫)
  57. ^ 週刊現代、2020年8月22・29日号、昭和の怪物研究/根本陸夫-「三流キャッチャー」はいかに球界の寝業師に、186頁
  58. ^ 『読売新聞』1999年11月27日付
  59. ^ プロ野球レジェンドが語るあの日、あのとき、産経新聞出版、P384、2015年
  60. ^ 聞きしに勝るやりにくい球団[リンク切れ]
  61. ^ プロ野球レジェンドが語るあの日、あのとき、P135
  62. ^ 【虎番疾風録第3章】(83)長嶋獲得へ西武の熱き思い
  63. ^ 針木康雄編 野村克也さんのヤクルト監督就任の立役者 zakzak 2013.05.22
  64. ^ 【パンチ佐藤】イチロー選手から仰木監督まで…裏話炸裂!”. 日刊大衆 (2015年3月21日). 2016年12月20日閲覧。
  65. ^ a b 長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』日本経済新聞 2009年 262頁
  66. ^ 【11月21日】1992年(平4) “残りものには福”伝説健在!長嶋監督、松井秀喜当てる”. スポニチアネックス (2008年11月). 2015年7月6日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年9月6日閲覧。
  67. ^ 『読売新聞』1999年11月27日付
  68. ^ a b 『野球は人生そのものだ』日本経済新聞 2009年 260頁
  69. ^ 長嶋茂雄、野球は人生そのものだ (中公文庫) 中央公論新社、2020年、249頁
  70. ^ 2002年秋発売の週刊誌より
  71. ^ 日本経済新聞出版社 『野球は人生そのものだ』 悔いのない監督委譲から引用
  72. ^ “長嶋監督が勇退、巨人終身名誉監督に 後任は原コーチ=号外も発行”. 読売新聞: 東京朝刊1頁. (2001年9月29日) 
  73. ^ “栄光の「3」忘れない 巨人・長嶋監督 退任セレモニー”. 読売新聞: 東京朝刊1頁. (2001年10月1日) 
  74. ^ ベースボールマガジン2005年冬季号130ページ
  75. ^ 野球で支援…長嶋茂雄元監督にキューバが「友好勲章」 2012年11月22日 スポーツニッポン
  76. ^ 長嶋、松井両氏 5月5日に東京Dで栄誉賞授与式 スポーツニッポン2013年4月16日配信
  77. ^ 安倍首相、国民栄誉賞授与“野球場ショー””. 中央日報 (2013年5月6日). 2020年10月6日閲覧。
  78. ^ “長嶋茂雄・松井秀喜氏に国民栄誉賞”. NHKニュース (日本放送協会). (2013年5月5日). オリジナルの2013年5月5日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2013-0505-2035-21/www3.nhk.or.jp/news/html/20130505/t10014371201000.html 2013年5月9日閲覧。 
  79. ^ 松井秀喜氏引退式 ドームに立つことは「もう2度と許されないと思っていた」 スポーツニッポン2012年5月5日
  80. ^ 松井秀喜氏 国民栄誉賞受与式「光栄だが、同時に恐縮」 スポーツニッポン2013年5月5日配信
  81. ^ 松井カモン!長嶋さんがフルスイング披露へ 国民栄誉賞授与式 スポーツニッポン2013年5月5日配信
  82. ^ 長嶋茂雄氏への千葉県県民栄誉賞の授与について”. 千葉県庁 (2013年4月25日). 2016年3月5日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年5月20日閲覧。
  83. ^ 長嶋茂雄さんへの県民栄誉賞表彰式を行いました”. 千葉県庁 (2013年6月7日). 2016年3月5日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年6月11日閲覧。
  84. ^ 長嶋茂雄さん市民栄誉賞表彰式について 千葉県佐倉市オフィシャル・サイト 2013年6月15日付
  85. ^ a b 長嶋氏、市民栄誉賞を受賞「感謝します」 日刊スポーツ 2013年7月12日閲覧
  86. ^ 東京都名誉都民候補者の選定について”. 東京都庁 (2014年8月29日). 2014年11月10日閲覧。
  87. ^ 長嶋さん「この上ない喜び」と笑顔 名誉都民顕彰式”. スポニチアネックス (2014年10月1日). 2014年11月10日閲覧。
  88. ^ 名球会 新理事長に山本浩二氏「国内で全員が参加する野球教室を」”. スポニチアネックス (2014年12月18日). 2015年1月28日閲覧。
  89. ^ “長嶋茂雄氏が入院、7月初旬に胆石見つかり治療継続”. 日刊スポーツ. (2018年8月8日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/201808080000731.html 2021年7月24日閲覧。 
  90. ^ “長嶋茂雄さん、昨年末で退院 巨人キャンプ視察は未定”. 朝日新聞デジタル. (2019年1月18日). https://www.asahi.com/articles/ASM1L45SVM1LUTQP017.html 2021年7月24日閲覧。 
  91. ^ a b c “長嶋茂雄氏 昨夏なら不可能だった聖火ランナーを王氏、松井氏と務める 闘う姿が五輪との縁結ぶ”. Sponichi Annex. (2021年7月23日). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2021/07/23/kiji/20210723s00048000553000c.html 2021年7月24日閲覧。 
  92. ^ “長嶋茂雄氏「寝たきりだと言われてもやる」 聖火リレーへの執念が起こした“2度の奇跡””. 東スポWeb. (2021年7月24日). https://www.tokyo-sports.co.jp/sports/3457827/ 2021年7月24日閲覧。 
  93. ^ 鷲田康 (2021年7月24日). “厳しすぎるリハビリを乗り越えて…長嶋茂雄が東京五輪にどうしても“参加”したかった理由《開会式・聖火ランナー》”. Number Web: p. 3. https://number.bunshun.jp/articles/-/849010?page=3 2021年7月24日閲覧。 
  94. ^ “ミスターが走った 王貞治さん、松井秀喜氏と感動聖火リレー 野球・ソフトボール“五輪再復帰”へアピール”. サンスポ. (2021年7月24日). https://www.sanspo.com/article/20210724-S3IHCGJEGZPGHORHS5QNBZOA5U/?outputType=theme_tokyo2020 2021年7月24日閲覧。 
  95. ^ 鷲田康 (2021年7月24日). “厳しすぎるリハビリを乗り越えて…長嶋茂雄が東京五輪にどうしても“参加”したかった理由《開会式・聖火ランナー》”. Number Web: p. 1. https://number.bunshun.jp/articles/-/849010 2021年7月24日閲覧。 
  96. ^ 文春ビジュアル文庫「豪球列伝」足立の項
  97. ^ 文春ビジュアル文庫「ヒーロー列伝」権藤の項
  98. ^ 野村克也著『巨人軍論』
  99. ^ a b c “【連続写真】巨人・長嶋茂雄「野性味あふれるミスターの豪快スイング」”. 週刊ベースボールONLINE. (2018年3月28日). https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180328-18 2020年1月15日閲覧。 
  100. ^ 文春Numberビデオ「熱闘!阪神vs巨人1200試合」
  101. ^ オレは野球をやっている。長嶋はゲームをやっている。 そんな野球には負けられない”. 【公式】野村監督 名言集 (2019年9月1日). 2020年2月16日閲覧。
  102. ^ 長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』日本経済新聞 2009年 68頁
  103. ^ 3.これぞ長嶋流〜バットへのこだわり 人間・長嶋を語ろう”. スポニチアネックス (2008年1月7日). 2016年3月4日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2014年6月25日閲覧。
  104. ^ 『プロ野球 奇人変人列伝』名球会では異色の人格者 〇王貞治の項より
  105. ^ 『プロ野球 奇人変人列伝』名球会では異色の人格者 〇王貞治の項より
  106. ^ 長嶋茂雄氏「ゴロには15種類あるがフライは1種類しかない」”. NEWSポストセブン (2015年1月13日). 2016年12月18日閲覧。
  107. ^ 長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』日本経済新聞 2009年 64頁
  108. ^ 週刊ベースボール2018年10月22日号、週刊ベースボール60周年記念企画西武ライオンズLEGEND対談廣岡達朗×石毛宏典、109頁
  109. ^ a b 玉木正之 スポーツ・ジャーナリズムを語る 』(国士舘大学体育スポーツ科学学会 2003年)
  110. ^ 長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』日本経済新聞 2009年 73頁
  111. ^ 長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』日本経済新聞 2009年 68頁
  112. ^ Tokyo2020 64年大会「私の原体験」長嶋さんと五輪 - 読売新聞2021年7月24日朝刊17面
  113. ^ 「長嶋家はもともとバラバラ、家族断絶」長嶋一茂が父との確執報道めぐり法廷で衝撃証言リテラ、2015.05.10
  114. ^ 週刊FLASH 2019年4月9日号
  115. ^ 「長嶋」一茂へ 異例要求で父茂雄氏の表記に/復刻 日刊スポーツ。2016年12月11日配信(1991年12月11日の紙面より)。
  116. ^ 週刊文春2020年1月30日号、スポーツ 長嶋茂雄と10.8決戦 高木守道「頑固モン」伝説、137頁
  117. ^ a b c 長嶋茂雄、引退 その日のミスターと周囲の人々”. スポニチアネックス (2007年10月). 2016年5月20日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年7月4日閲覧。
  118. ^ 王と長嶋~プロ野球を国民スポーツにした2人の功労者~(20) 背番号「89」に込められた二つの意味 リアルライブ 2009年4月17日付
  119. ^ 週刊現代2020年1月25日号「昭和の怪物」研究/安倍晋太郎-「安竹宮」でただ一人総理になれなかった、27頁
  120. ^ 塩見三省、長嶋さんとのリハビリ“共闘”明かす 2年ぶりドラマ復帰,スポーツ報知,2016年2月26日
  121. ^ 塩見三省 脳出血から2年ぶり復帰 長嶋さんがリハビリの支えに”. スポニチアネックス (2016年2月26日). 2016年2月26日閲覧。
  122. ^ 佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)
  123. ^ 「ビッグ対談 長嶋茂雄&羽生善治」 - 将棋ペンクラブログ・2015年1月6日
  124. ^ 有働由美子『ウドウロク』,129頁。
  125. ^ a b 雑誌Number 名勝負列伝
  126. ^ 長嶋氏「永遠の球場に」 出身地で球場命名式(YouTube・共同通信社公式チャンネル 2013年7月12日公開 同9月15日閲覧)
  127. ^ 長嶋茂雄記念岩名球場リニューアルオープン(2017/6/19)佐倉市(YouTube・さくら動画配信(佐倉市公式チャンネル) 2017年6月19日公開 同7月6日閲覧)
  128. ^ 【祝☆長嶋茂雄記念岩名球場リニューアルオープン】(佐倉・城下町400年記念事業公式Facebook 2017年6月5日公開 同7月6日閲覧)
  129. ^ 長嶋氏、出身地で始球式 千葉、背番号3で打席に(YouTube・共同通信社公式チャンネル 2017年6月4日公開 同7月6日閲覧)
  130. ^ ミスターがTHEを「てへ」と読んだ伝説はウソと元報知記者 NEWSポストセブン 2013年2月25日
  131. ^ ねじめ正一「長嶋家の謎」(1999年)
  132. ^ https://www.youtube.com/watch?v=_sOCVKZ0ous
  133. ^ https://twitter.com/nagashima_bot/status/822002024271093760
  134. ^ https://www.youtube.com/watch?v=1S4NQTuKzDU
  135. ^ https://www.youtube.com/watch?v=1S4NQTuKzDU>
  136. ^ 概要”. 花と緑の農芸財団. 2019年11月9日閲覧。
  137. ^ 江本, 孟紀 (2001-03-27). 総理大臣長嶋茂雄 明るい破壊者だけが日本を救う. 飛鳥新社. pp. 41-43 
  138. ^ 長嶋茂雄ロード 誕生 - 伊豆の国市
  139. ^ 「人間魚雷」の回天記念館 自治体の仲間 2006年9月号 Vol.394”. 日本自治体労働組合総連合 (2006年9月). 2015年4月28日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年8月28日閲覧。
  140. ^ “佐倉の2雄、ねぶたに 長嶋茂雄さんと史上最強力士 雷電為右衛門 地元の祭り盛り上げへ”. 千葉日報. (2016年12月7日). http://www.chibanippo.co.jp/news/local/370414 2017年8月16日閲覧。 
  141. ^ 『われらのヒーロー伝説 長嶋茂雄』(2015年8月14日、BSフジ)
  142. ^ “【私の失敗(2)】長嶋一茂、伝説の名言には立ち会わず…引退を歯医者で知る”. サンケイスポーツ. (2016年1月20日). http://www.sanspo.com/baseball/news/20160120/npb16012011000001-n1.html 2017年1月6日閲覧。 
  143. ^ https://taishu.jp/articles/-/63413?page=1
  144. ^ 「わが人生、わが野球道(Vol.15)」著・山本一義 月刊The Carp 1992年5月号(No.54)
  145. ^ 三井ゴールデングラブ賞 歴代受賞選手”. 2021年2月17日閲覧。
  146. ^ 東京都文化賞・都民文化栄誉章”. 文化振興. 東京都生活文化局. 2017年12月4日閲覧。
  147. ^ 長嶋茂雄さん市民栄誉賞表彰式について”. 佐倉市 (2013年6月15日). 2017年12月4日閲覧。
  148. ^ 名誉都民顕彰者一覧 (PDF)”. 文化振興. 東京都生活文化局. 2017年12月4日閲覧。
  149. ^ 開幕戦本塁打は長嶋茂雄の10本が最多/記録メモ”. 日刊スポーツ (2020年6月13日). 2020年7月22日閲覧。
  150. ^ 福島民報』1971年6月21日付朝刊、8面。
  151. ^ 毎日新聞』1978年4月15日付朝刊、22面『長島監督ごめんなさい』番宣広告。
  152. ^ カルピス食品工業株式会社社史編纂委員会『70年のあゆみ』カルピス食品工業、1989年、174頁。
  153. ^ 株式会社千葉銀行 (1994年12月). “第四部 当行のあゆみ 30周年から50周年 第4章~第8章”. ちばぎん50年のあゆみ. p. 95. 2019年5月7日閲覧。
  154. ^ a b 産経新聞』1993年3月10日付東京朝刊。
  155. ^ 藤圭子の育ての親「…夢は夜ひらく」の石坂まさをさん死去スポニチアネックス、2013年3月11日 6時0分。
  156. ^ a b 初回生産限定盤A・B特典「葡萄白書」p.64より
  157. ^ サザン桑田、“栄光の男”長嶋茂雄氏との秘話明かす2016年1月4日閲覧。
  158. ^ 初回生産限定盤A・B特典「葡萄白書」p.28より。
  159. ^ 争奪戦必至! 限定15万部のサザンお宝フリーペーパーを配布2015年6月5日閲覧。
  160. ^ SPECIAL MAGAZINE サザンオールスターズ『葡萄』18ページより。
  161. ^ 栄光の背番号3 テレビドラマデータベース、2019年10月7日閲覧





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「長嶋茂雄」の関連用語

長嶋茂雄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



長嶋茂雄のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの長嶋茂雄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 GRAS Group, Inc.RSS