まさおか‐しき〔まさをか‐〕【正岡子規】
正岡子規 まさおか しき
愛媛生まれ。俳人、歌人。父は松山藩士。帝国大学文科大学中退。明治25年(1892)日本新聞社に入社、「日本」紙上を中心に文学活動を行い、俳句、短歌の革新運動を進め写生論を提唱した。日清戦争従軍後に喀血し病床生活を送るなか、『俳諧大要』(1895~連載、1899刊)を著し、俳誌「ホトトギス」を指導。31年(1898)には「歌よみに与ふる書」を連載して短歌革新に着手し、根岸短歌会を主宰。著作に句集『寒山落木』(1924)、歌集『竹の里歌』(1904)などがある。門下に高浜虚子、伊藤左千夫らがいる。
- 著作等(近代デジタルライブラリー収載)
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- 獺祭書屋俳話 / 獺祭書屋主人著 正岡常規, 1893 (日本叢書) <YDM87184>
- 獺祭書屋俳話 / 正岡子規著 . 2版 日本新聞社, 明28.8 (日本叢書) <YDM87185>
- 獺祭書屋俳話 / 正岡子規著 . 増補3版 弘文館, 明35.11 (日本叢書) <YDM87186>
- 行脚俳人芭蕉 / 正岡子規著 文淵堂, 〔明39〕 <YDM86900>
- 吾輩ハ猫デアル. [1], [2], [3] / 夏目漱石著 大倉書店, 明38-40 <YDM95777>
- 子規句集 / 瀬川疎山編 文山堂, 明41.10 <YDM87070>
- 俳諧三家集 秋,冬之部 / 堀野与七編 堀野与七, 明42.9 <YDM301421>
- 子規句選 / 千葉鬼村(保)編 内外出版協会, 明44.7 <YDM87071>
(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の「近代日本人の肖像」の内容を転載しております。掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)
正岡子規
正岡子規
正岡子規
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/21 09:05 UTC 版)
正岡 子規(正岡 常規)(まさおか しき、(まさおか つねのり)、1867年10月14日(慶応3年9月17日)- 1902年(明治35年)9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
注釈
- ^ 天田愚庵が自由民権の思想を伝えたという。松山市立子規記念博物館には「子規の国会開設に関する演説」という資料がある[1]。
- ^ 森鴎外などとの交際は、「遼東五友の交わり」と称された。その五友とは、鴎外、『新聞 日本』の中村不折、『読売新聞』の河東銓(かわひがし せん。俳人河東碧梧桐の兄)、久松定謨、子規の5人である[2]。なお、子規と鴎外の交際は、没するまで続いた[要出典]。
- ^ 中国の故事「杜鵑の吐血」に因む。長江流域に(秦以前にあった)蜀という傾いた国があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったという。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去(ゆ)くに如かず)と鳴きながら血を吐いた、と言い、ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。
- ^ 明治2年1月金沢生まれ。明治26年東京帝国大学卒業後大学院在学中の明治30年3月29日腹膜炎で死亡。
- ^ 子規記念博物館の展示でも確認できる。
出典
- ^ (中村政則 2010)
- ^ 佐谷眞木人『日清戦争』講談社現代新書、2009年、54頁。
- ^ a b 国立国会図書館 デジタルコレクション 正岡子規 著 大正14 アルス『子規全集. 第8巻 (少年時代創作篇)』「水戸紀行」 info:ndljp/pid/978844 請求記号 520-9 書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク)000000590499 DOI 10.11501/978844『水戸紀行』
- ^ 正岡子規 『墨汁一滴』 春陽堂、1932年。
- ^ 処女作追懐談 夏目漱石 青空文庫
- ^ 漱石と自分 狩野亨吉 青空文庫
- ^ 上田正行「「哲学雑誌」と漱石」『金沢大学文学部論集 文学科篇』第8号、金沢大学、1988年2月、1-37頁、ISSN 02856530、NAID 110000976302。
- ^ 「哲学雑誌」124号、125号
- ^ 伊集院静「それがどうした 男たちの流儀 第264回」『週刊現代』2015年5月23日号、講談社、pp.68-69。
- ^ 城井(1996年) pp.118-119
- ^ 城井(1996年) p.102
- ^ 君島(1972年) p.75
- ^ a b 殿堂入りリスト公益財団法人野球殿堂博物館、2020年10月13日閲覧
- ^ 正岡子規 『香雪紫雲』 春陽堂、1932年.
- ^ 末延芳晴「従軍記者正岡子規」愛媛新聞 2010年2月7日付。のち『正岡子規、従軍す』平凡社、2011年
- ^ 『筆まかせ抄』95頁。
- ^ 『筆まかせ抄』97頁。
- ^ a b c d e f g h 『差別用語』(汐文社、1975年)pp.76-77
- ^ 復本一郎『歌よみ人正岡子規 病ひに死なじ歌に死ぬとも』(岩波現代全書、2014年)に詳しい。
- ^ 司馬遼太郎『ひとびとの跫音』[要文献特定詳細情報]
- ^ 森銑三『森銑三著作集:続編 第六巻』中央公論社、1993年、226頁。
- ^ 森銑三『森銑三著作集:続編 第六巻』中央公論社、1993年、238-241頁。
正岡子規
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:06 UTC 版)
仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来實朝以来一向に振ひ不申候。實朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存候。強ち人丸・赤人の余唾を舐るでもなく、固より貫之・定家の糟粕をしやぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、實朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに實朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、實朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵は力を極めて實朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は實朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之候。
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正岡子規
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 01:29 UTC 版)
正岡子規は第一高等中学校の寄宿舎で賄征伐を行った。その様子は子規の随筆『筆まかせ』の中の1節「賄征伐」にて描かれており、この節は『筆まかせ』のなかでも最も文量が多い。賄征伐の様子を詳しく記した文献は少ないため、この子規の記録は貴重なものとなっている。 当時の寄宿舎の献立は、朝食が味噌汁と豆、昼食が牛肉の煮物と魚の煮物が隔日くらい、夕食が西洋料理1皿だった(ご飯をパンに、おかずを卵に変えることも可能)。子規によるとこの内容は、下宿屋に比べれば良いけれども、料理屋よりはずっと悪く、夕食の「西洋料理」というものも、「名でおどす許(ばか)り」だったという。子規は当時、賄征伐という言葉は知っていたが、実際に目にしたことはなかった。そのため、「其名ありて実の絶ゆるは残念なり いで余等一度之が実行を試みんとは余等同級入舎生の日頃の持論なりき」として、1891年(明治24年)4月に賄征伐を決行した。 午後5時に食堂に現れた子規らは、賄に飯を持ってこさせては食べ、持ってこさせては食べを繰り返し、さらに、この飯は冷たい、固い、ごみがあるなどと難癖をつけては、米を机の上にひっくり返した。そのうちに騒乱状態になって、賄方を呼ぶ声や机をたたく音などが食堂内に響き渡った。 大騒ぎした子規らは、やがて腹が一杯になったが、ここで騒動を終わらせるのには物足りなさを感じていた。その時、同級生と賄方との間で暴力行為が行われ、これをきっかけに子規らは大挙して賄方に詰め寄った。賄方は多勢に無勢で、賄所へと逃げ込むのが精一杯だった。 後日、この事件によって生徒11人に停学退舎処分が下された。中には征伐を行っていないにもかかわらず停学となった者もいたが、子規は何の咎めも受けなかった。この理由について当時の征伐参加者は、子規は日頃のふるまいからして乱暴を行うような人とは思われなかったためだろうと証言している。 子規は自分が処罰されなかったことに対して少し喜んだが、しかしそうはいっても無実の者が停学となるのは納得がゆかず気の毒に感じたので、共同で弁明書を作って学校に提出した。その結果該当の生徒は十数日後に停学を解かれ、停学を受けた残りの生徒も順次赦免となった。
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正岡子規
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:22 UTC 版)
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正岡子規
出典:『Wiktionary』 (2021/08/15 09:01 UTC 版)
人名
- 明治時代の日本の俳人・歌人、国語学研究家。1867年(慶応3年) - 1902年(明治35年)。諱(個人の本名)は常規(つねのり)。幼名(wp)は、始め、処之助(ところのすけ)、のちに改名して、升(のぼる)。明治時代を代表する文学者の一人であり、俳句の大成者。代表文献として『歌よみに与ふる書』がある。
由来
「子規」とは、啼いて血を吐くというホトトギスのことである。自身が結核によって喀血したことと、諱である「常規」が「規」の字を含むことから、これを俳号とした。随筆『筆まかせ』第2編 明治23年の部「雅号」に「去歳春喀血せしより子規と号する故」とある。
呼称一覧
- 幼名1 - 処之助(当時の表記:處之助)(ところのすけ) :正岡処之助(正岡處之助)。
- 幼名2 - 升(のぼる) :正岡升。就学年齢(4~5歳)を迎えるに際し、「ところてん」とからかわれることのないようにと、外祖父・大原観山が易の地風升から「升」の字を採って改名した。雅号の一つ「野球(のぼーる)」(1890年〈明治23年〉2月、『筆まかせ』初出)は「升(のぼる)」をもじったもので、正岡子規が「野球」の名付け親だという誤解(伝説)にも関連する。
- 諱(個人の本名) - 常規(つねのり) :正岡常規。
- 渾名(愛称) - のぼさん :升(のぼる)に改名して以降のもので、友人や母親が呼ぶようになった。
- 俳号1 - 老桜(ろうおう) :10歳時より。
- 俳号2 - 中水
- 俳号3 - 香雲(こううん) :15~16歳時より。
- 俳号4 - 子規(しき) :正岡子規。1889年(明治22年)5月9日(23歳時)より。
- 主な別号 - 獺祭書屋主人(だっさいしょおく しゅじん)、竹の里人(たけ の さとびと)、地風升(ちふう しょう)、越智処之助(おち ところのすけ)
- 他の雅号 - 走兎、風廉、西子(せいし)、螺子(らし)、漱石(そうせき)、士清、子升、常規凡夫(じょうきぽんぷ)、眞棹家、丈鬼(じょうき)、冷笑居士、獺祭魚夫(だっさいぎょふ)、放浪子、秋風落日舎主人(しゅうふうらくじつしゃ しゅじん)、癡夢情史、野暮流(のぼる)、盗花(とうか)、四国仙人(しこく せんにん)、沐猴冠者(もっこう かじゃ)、被襟生、莞爾生(かんじせい)、浮世夢之助(うきよ ゆめのすけ)、蕪翠(ぶすい)、有耶無耶漫士(うやむや まんし)、迂歌連達磨(うかれだるま)、情鬼凡夫、馬骨生、野球(のぼーる)、色身情仏、都子規(つねのり)、虚無僧、饕餐居士、僚凡狂士、青孝亭丈其、裏棚舎夕顔、薄紫、蒲柳病夫(ほりゅう びょうふ)、病鶴痩士、無縁癡仏、情魔癡仏、舎蚊無二仏、癡肉団子、仙台萩之丞、無何有洲主人、八釜四九、面読斎(めんどくさい)、一橋外史、猿楽坊主、桜亭仙人(おうてい せんにん)、緩寛人、於怒戯書生、無茶苦茶散人、四国猿、弄球、能球、ほか多数
- 戒名 - 子規居士(しき こじ)
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