平沼亮三とは? わかりやすく解説

ひらぬま‐りょうぞう〔‐リヤウザウ〕【平沼亮三】


平沼亮三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/03 21:26 UTC 版)

平沼 亮三
ひらぬま りょうぞう
1937年7月
生年月日 1879年2月25日
出生地 日本 神奈川県横浜市
没年月日 (1959-02-13) 1959年2月13日(79歳没)
死没地 日本 東京都新宿区信濃町
出身校 慶應義塾大学卒業
前職 日本体育協会会長
日本陸上競技連盟会長
東京六大学野球連盟会長
日本体操協会会長
横浜商工会議所会頭
神奈川県議会議員
横浜市会議員
所属政党 大隈伯後援会→)
憲政会→)
立憲民政党
称号 従三位
勲一等瑞宝章
文化勲章
1979年度野球体育博物館特別表彰

第15-16代 横浜市長
当選回数 2回
在任期間 1951年4月23日 - 1959年2月13日

選挙区 多額納税者議員・神奈川県
当選回数 2回
在任期間 1932年9月29日 - 1946年5月14日[1]

選挙区 (旧神奈川県横浜第1区→)
旧神奈川県第1区
当選回数 2回
在任期間 1915年3月25日 - 1917年1月25日
1924年5月11日 - 1928年1月21日
テンプレートを表示
「平沼さんの像」
文化勲章授与式、前列左側が平沼亮三[2]

平沼 亮三(ひらぬま りょうぞう、1879年明治12年)2月25日[3] - 1959年昭和34年)2月13日[3])とは日本実業家政治家アマチュアスポーツ選手。衆議院議員憲政会民政党)、貴族院議員同成会)、横浜市長。日本における市民スポーツの父と呼ばれる。

人物

1879年明治12年)、神奈川県横浜市に生まれる。慶應義塾の出身で、福澤諭吉の門下生である。慶應義塾大学野球部では4番打者として活躍し、のち東京六大学野球連盟会長となった。野球に対する貢献及び功績により1979年度の野球殿堂特別表彰を受けた。

平沼は神奈川県議会横浜市会衆議院議員貴族院議員と地方議会、帝国議会の議員を務めた後[4]公職追放を経て[5]、追放解除後に横浜市長となる。

野球以外のスポーツにも積極的に関わり、全日本体操連盟の初代会長であり、同連盟が戦時および戦後の改組を経て日本体操協会となってのちもその職を引き継ぎ、死去するまで約30年間在任し、日本陸上競技連盟(日本陸連)の初代理事長・会長や日本バレーボール協会初代会長を歴任した他、1932年(昭和7年)のロサンゼルスオリンピック及び1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックと2回の夏季オリンピックでは日本選手団団長を務めた。

1955年(昭和30年)に行われた第10回国民体育大会秋季大会開会式では76歳にして炬火の最終ランナーを務めたが、その勇姿を見た昭和天皇が「松の火をかざして走る老人(おひびと)のををしき姿見まもりにけり」と詠んだ。その神奈川国体開会式会場となった三ツ沢公園内には昭和天皇の御製碑と銅像「平沼さんの像」が建立された。また国体と同年の5月29日には慶應義塾大学日吉陸上競技場に平沼亮三が喜寿の祝いに全国競技団体から贈られた像(吉田三郎作)を慶應義塾体育会に寄贈したものが建てられた。その胸像は当初メインスタンド(現在の協生館付近)の中央に設置されていたが、2008年(平成20年)の日吉陸上競技場改修に伴い、バックスタンド(慶応義塾高等学校側)の中央に移設された。

1955年(昭和30年)にはスポーツ関係者としては初となる文化勲章を受章。

実業界では第一ホテル社長や[6]玉川電気鉄道社長[7]キリンビール東京會舘帝国劇場東京ガスなどの重役を兼任し、横浜商工会議所の9代目会頭を務めた。

横浜市長として1958年(昭和33年)に行われた横浜開港100年祭の実行委員長を務めている。

1959年(昭和34年)2月13日、2期目の横浜市長在職中、慶應義塾大学病院にて死去。79歳没。墓所は横浜市願成寺

年譜

  • 1915年:アイスホッケー用具一式を輸入して諏訪湖スケート会へ寄贈。諏訪湖で日本初のアイスホッケーが行われるきっかけを作った[8]
  • 1925年:日本陸上競技連盟の初代理事長に就任。
  • 1929年:日本陸上競技連盟の改組により、初代会長に就任。また同年、大日本排球協会(現在の日本バレーボール協会)設立により初代会長に就任。
  • 1930年:玉川電気鉄道の社長に就任[7]。日本体操協会の初代会長に就任。
  • 1932年:ロサンゼルス五輪の選手団長を務める。
  • 1937年:第一ホテルの社長に就任[6]
  • 1938年2月2日:日本送球協会(現:日本ハンドボール協会)が設立にあたり会長に就任[9]
  • 1946年:日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)の会長に就任。同年、公職追放される。
  • 1950年11月22日:横浜商工会議所会頭に就任。
  • 1951年4月23日:横浜市長に当選。
  • 1955年4月22日:横浜市長に再選される。
国体神奈川大会の炬火リレー最終ランナーを務める。
11月3日:スポーツの振興の功績により文化勲章を受章。
  • 1958年:横浜開港100年祭実行委員会会長を務める。
  • 1959年2月13日:死去、勲一等瑞宝章を追贈される。
  • 1970年11月:横浜市立平沼記念体育館が開館。
  • 1979年:野球殿堂入り

エピソード

カツカレーの元祖は千葉茂(元近鉄監督)だという説が定説となっているが、その四半世紀も前、平沼は稽古に集う者たちにスポーツライスという名でカツカレーを提供していたという。
  • ボート競技にも造詣が深く、1940年(昭和15年)、戸田漕艇場オープン時のデモンストレーションに選ばれて出漕している[11]

家族・親族

三男の平沼五郎は岩倉具清(明治の元勲岩倉具視の曾孫)らと共に日本におけるフェンシングの普及に貢献し、また慶應フェンシングクラブ(慶應義塾體育會フェンシング部)を設立した人物。五郎は慶應大卒業後、古河電気工業に入社し常務などを歴任した。五郎の妻・美名子は旧会津藩主だった松平容保の孫娘(容保の次男松平健雄の娘で、昭和天皇の実弟である秩父宮雍仁親王に輿入れした雍仁親王妃勢津子の従兄弟)であるため、平沼家は会津松平家を通して天皇家の係累となっている。

次男の平沼七郎は麒麟麦酒常務取締役を務め、孫の平沼泰三はニチロ子会社の社長を務めた。七郎の長女は日本電気及び萬有製薬創業者一族の岩垂好裕に嫁いだが、好裕の父岩垂好徳は日本電機専務を務めた。好徳の義兄岩垂亨は萬有製薬の創業者であり、好徳の祖父岩垂邦彦は日本電気の創業者として知られている。好裕の母は長州藩主家で男爵だった毛利五郎の次女であり、毛利五郎の長女は実業之日本社の創業者一族に嫁いだ。

横浜市西区平沼近辺(通称:平沼町)は曾祖父の5代目平沼九兵衛が1839年、埋め立てを始め、父7代目平沼九兵衛の代で完成した。平沼家は埋立地で製塩を始め[12]生糸で成功した商人[13]。なお、横浜市の有識者の間では平沼専蔵家を本家、亮三家を分家とする認識があるが、専蔵家は埼玉県飯能出身、亮三家は江戸時代中期より横浜に存在しており、両家に血縁関係はない。ちなみに亮三は7代目九兵衛の長男なのでまぎれもなく本家である。

妻・婦美は貴族院議員だった高木亮三の養女で、長男・九郎、長女・千鶴、次女・美代、三女・苫舎、次男・七郎(麒麟麦酒常務[14])、三男・五郎の母となった。長女千鶴は麒麟麦酒元社長の伊丹二郎の長男伊丹勝に嫁ぎ、三女・苫舎は東洋ステンレス工業元社長の松本興に嫁いだが、松本興の弟である松本大亮が平沼の恩師である福澤諭吉の孫娘(諭吉の四男福澤大四郎の長女)を妻に迎えたため、平沼・松本家は福澤家と閨閥でつながっている。大四郎の兄福澤三八の妻は大阪市長を務めた鶴原定吉の長女で、鶴原の娘二人は安川敬一郎の三男安川第五郎[15]、外交官杉村陽太郎に嫁いだ。また鶴原の長男鶴原浩二が井上準之助の娘婿(元東海銀行会長の三宅重光らと義兄弟)であるため、平沼家は安川家や杉村家、さらに松本・福澤・鶴原家を通して井上家などの係累にもなっている。

俳優石坂浩二は庶孫、俳優の平沼成基は曾孫にあたる。

著書

  • 『スポーツ生活六十年』

脚注

  1. ^ 『官報』第5799号、昭和21年5月17日。
  2. ^ 『秋晴れ 文化の日 文化勲章授与式』「天皇陛下から励ましのお言葉」、前列左から平沼亮三、二木謙三大谷竹次郎、後列左から増本量前田青邨和辻哲郎。毎日新聞、1955年11月3日。
  3. ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、153頁。
  4. ^ 慶應義塾史跡めぐり スポーツの父 平沼亮三 - 慶應義塾月刊三田評論ホームページ 2010年6月5日閲覧。
  5. ^ 『朝日新聞』1946年10月6日一面。
  6. ^ a b 「(株)第一ホテル『夢を託して : 第一ホテル社史』(1992.03)」渋沢社史データベース
  7. ^ a b 「東京横浜電鉄(株)『東京横浜電鉄沿革史』(1943.03)」渋沢社史データベース
  8. ^ 下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868-1925』河出書房新社、2000年、401頁。ISBN 4-309-22361-3 
  9. ^ 陸連から独立、日本送球協会を結成『東京日日新聞』(昭和13年2月3日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p618 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  10. ^ 『塾』第32巻2号(1994年(平成6年)4月1日発行)参照
  11. ^ 漕ぎ初め式、古希艇や還暦艇も出場『東京日日新聞』(昭和15年11月1日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p549
  12. ^ 『スポーツ生活六十年』 平沼亮三 著 (慶応出版社, 1943)
  13. ^ 第2章 京浜工業地帯の発展と相次ぐ試練の半世紀横浜開港150年の歴史、横浜税関
  14. ^ 麒麟麦酒(株)『麒麟麦酒の歴史. 続戦後編』(1985.03)渋沢社史データベース
  15. ^ タレントで野球評論家の板東英二夫人の大叔父(板東の妻は第五郎の兄松本健次郎の孫娘)。

参考文献

外部リンク

公職
先代
石河京市
横浜市長
第15-16代:1951 - 1959
次代
半井清
ビジネス
先代
(新設)
第一ホテル社長
初代:1937 - 1940
次代
土屋計左右
先代
(新設)
玉川電気鉄道社長
初代:1930 - 1936
次代
五島慶太
その他の役職
先代
中川末吉
野村洋三
横浜商工会議所会頭
第9代:1946
第11代:1950 - 1951
次代
野村洋三
原良三郎
先代
下村宏
日本体育協会会長
第5代:1946
次代
東龍太郎
先代
(創設)
日本体操協会会長
初代:1929 - 1961
次代
三橋喜久雄
先代
(創設)
日本陸上競技連盟会長
初代:1929 - 1958
次代
春日弘



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