たむら‐こまじろう〔‐こまヂラウ〕【田村駒治郎】
田村駒治郎
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2代 田村 駒治郎(たむら こまじろう、1904年(明治37年)2月21日 - 1961年(昭和36年)1月21日)は、日本の実業家。
注釈
- ^ 1918年の会社設立時は「田村駒商店」で、1943年3月に「田村駒」に改称。1957年1月に常盤鋼材の営業権を譲受して「田村駒常盤」に改称、駒治郎没後の1977年3月に「田村駒」に戻っている。以下の文中では「田村駒」に表記を統一する。
- ^ 「ライオン軍」への改名の経緯について中野晴行は、田村が夫人と大阪タイガースより強い」という意図で付けたとしている[5]。ライオンのウェブサイトでは(鈴木龍二の回顧録を出典として)「ライオン」の名称が出たときに小林商店との提携の話が浮上し、「球団名をライオンとするなら」という条件で改名に至ったとある[11]
- ^ これらのチームからプロ野球入りした選手に中谷準志・酒沢成治・灰山元治・道仏訓らがおり、このうち中谷・酒沢・灰山はそのままライオン軍に進んでいる。
- ^ のちにGHQの命令により1949年解散している。
- ^ 一楽荘は現在の西宮市甲子園砂田町1 - 5丁目にあった。敷地1万坪で、土地は1934年に取得し、先に木造2階建家屋(400坪)を建て、1939年に洋館が完成して建坪は合計800坪となった[7]。洋館は木子七郎の設計だった[18]。跡地はマンションや一戸建ての住宅地になっている。
- ^ 戦後1946年に「パシフィック」の名称で再開し、1947年に「太陽ロビンス」、1948年に「大陽ロビンス」と改称後、1950年に松竹との提携により「松竹ロビンス」となる。
- ^ 犬舎は戦後、戦災で焼け落ちた合宿所の代わりとして改装の上、転用された[22]。
- ^ 『球団消滅』に収録された三代駒治郎の回想によると、夫人は当時の女性としては珍しく学生野球時代からの野球好きで、駒治郎がオーナーになってからは球団の記事をスクラップブックに貼るほどであった[33]。ただし、早稲田びいきの駒治郎に対し、夫人は兄が卒業した慶應びいきのため、早慶戦の後は大変だったという[33]。
- ^ 中野晴行の『球団消滅』では、駒治郎が連盟理事会の席で南海代表の松浦竹松に「大陽は再来年には球場を提供できるつもりだったから、1年で球場を作ってもらう」ことを要請したとなっており、南海の球場が実現しなければ建設する意向を示す形にはなっていない[53]。
- ^ 対立する立場であった駒治郎と永田であるが、オーナーとしての行動には、アメリカの球団オーナーへの憧れを抱き、長期的な視点から球界全体の発展を唱える一方、ワンマンオーナーとして現場にも介入し、リーグ優勝しながら日本シリーズの敗退を一因として就任一年目の監督が辞任するなど、奇しくも類似する点が見られる。鈴木龍二は回顧録の中で「個人の金でプロ野球を経営したのは、この田村氏と永田氏の二人だけだ、とぼくは思っている」と記している。
- ^ これに関連して、「1950年の日本シリーズ前(またはシリーズ中)に最高殊勲選手が小鶴誠に決まったため、駒治郎が真田に功労金を渡し、それでチームに内紛が生じた」という記述が鈴木龍二の回顧録をはじめとして見られるが、実際には最高殊勲選手はシリーズ後に発表されているため、事実ではない(詳細は真田の項目を参照)。
- ^ このほか、別所引き抜き事件の際に別所毅彦を東京・駒場の田村駒東京別邸(赤坂別邸売却後に入手)に匿ったことがあり、「駒治郎は別所という選手が好きだった、と考えるのが最も自然なのかもしれない」と中野は記している[58]。
- ^ 関西弁で「うまく」という意味。
出典
- ^ a b c d e f 中野晴行 2000, p. 221.
- ^ a b c 中野晴行 2000, pp. 32–33.
- ^ a b 中野晴行 2000, p. 34.
- ^ 中野晴行 2000, p. 35.
- ^ a b c d e f g h i 中野晴行 2000, pp. 36–37.
- ^ a b 中野晴行 2000, p. 24.
- ^ a b 田村駒株式会社 1984, p. 150.
- ^ a b c d e 中野晴行 2000, pp. 93–94.
- ^ 中野晴行 2000, p. 56.
- ^ a b c 中野晴行 2000, pp. 30–32.
- ^ “プロ野球(戦前編)【ライオンの歴史・ライオンミュージアム】”. ライオン. 2021年1月2日閲覧。
- ^ 都市対抗野球大会 - 日本野球連盟(ページ内の「2002年以前の都市対抗野球大会優勝・準優勝チーム」を参照、2020年12月29日閲覧)
- ^ a b 中野晴行 2000, p. 38.
- ^ 田村駒株式会社 1984, p. 160.
- ^ a b c 中野晴行 2000, p. 27.
- ^ 田村駒株式会社 1984, pp. 210–211.
- ^ 中野晴行 2000, p. 22.
- ^ 川島智生「阪神間・都市と建築の記憶2 -西宮・「酒造都市」の系譜」- 『あにあん倶楽部』(2021年1月4日)2021年11月13日閲覧。なお川島は跡地を「現在はマンション」と書いているが、戸建て住宅も旧敷地の区域にはある。
- ^ 中野晴行 2000, pp. 63–67.
- ^ 田村駒株式会社 1984, p. 218.
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿645頁。公職追放の該当事項は「帝国繊維副社長」。
- ^ a b c d e f 中野晴行 2000, pp. 87–88.
- ^ 中野晴行 2000, pp. 128–129.
- ^ 中野晴行 2000, pp. 164–165.
- ^ a b c 中野晴行 2000, pp. 193–198.
- ^ a b c 中野晴行 2000, pp. 200–203.
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- ^ 田村駒治郎 - 野球殿堂博物館
- ^ 中野晴行 2000, pp. 19–20.
- ^ a b 中野晴行 2000, p. 26.
- ^ a b c 中野晴行 2000, pp. 11–12.
- ^ 田村駒株式会社 1984, pp. 124–125.
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- ^ a b 中野晴行 2000, pp. 198–199.
- ^ 中野晴行 2000, p. 44.
- ^ a b 中野晴行 2000, pp. 102–103.
- ^ a b c d e f g 中野晴行 2000, pp. 179–183.
- ^ a b 中野晴行 2000, pp. 14–17.
- ^ a b 中野晴行 2000, pp. 40–41.
- ^ 中野晴行 2000, pp. 46–47.
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- ^ 中野晴行 2000, pp. 82–83.
- ^ 中野晴行 2000, p. 49.
- ^ 中野晴行 2000, p. 81.
- ^ 中野晴行 2000, p. 62.
- ^ 中野晴行 2000, pp. 79–80.
- ^ 中野晴行 2000, p. 90.
- ^ 永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ 野球ファンとパ・リーグの文化史』紀伊國屋書店、2003年、pp.47 - 48
- ^ a b c d 中野晴行 2000, pp. 114–120.
- ^ a b 永井良和『ホークスの70年』ソフトバンククリエイティブ、2008年、p.135
- ^ 中野晴行 2000, p. 106.
- ^ a b 中野晴行 2000, pp. 110–111.
- ^ 中野晴行 2000, p. 132.
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- ^ 中野晴行 2000, pp. 160–161.
- ^ 中野晴行 2000, pp. 166–167.
- ^ a b 中野晴行 2000, pp. 134–137.
- ^ 『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、2003年、p.45
- ^ 中野晴行 2000, p. 219.
- ^ 田村駒治郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
[続きの解説]
「田村駒治郎」の続きの解説一覧
- 1 田村駒治郎とは
- 2 田村駒治郎の概要
- 3 プロ野球オーナーとして
- 4 親族
- 5 外部リンク
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