ロビンスと田村駒治郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 09:53 UTC 版)
「松竹ロビンス」の記事における「ロビンスと田村駒治郎」の解説
名物オーナーといわれた田村駒治郎が球団を譲受したのは結成の翌年であるが、既に大東京軍時代には経営に参画していた。これは次のような経緯による:結成早々にして経営が行き詰まった同球団は国民新聞の経営であったが、この国民新聞は名古屋の新愛知新聞社が経営しており、同社は名古屋で「名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)」を経営していた。一社で二球団を持っていた状態は長くなく、間もなく大東京軍の経営は共同印刷の大橋松雄専務に委ねられたものの、大橋は球団経営に熱心ではなかった。この大橋の義兄(妻が姉妹同士)に当たり、かつ野球好きであった田村が大橋から更に委ねられる形で球団経営に参画し、翌年正式に譲渡を受けた。 1947年頃、田村には「ホームゲームはロビンス、ビジターゲームはサンズというように愛称を使い分ける」という考えがあった。「サンズ」は太陽レーヨンの「太陽」を英訳したものだが、田村のこの考えに失笑する関係者がほとんどで、愛称を使い分けることはなかった。また田村は1949年に京都新聞との提携を発表した際に、仮の球団名として京都ロビンスとしたが、地元の理解が得られず球団名変更を断念している。 1950年のシーズン終了後、二軍を田村駒に移籍させてノンプロチームを結成すると発表した。戦争中に解散したチームを復活でき、見込みのない選手には会社員として給与を与えながら野球をさせた方が生活が楽になるだろうとの意図からであったが、二軍の充実を図っていた他球団の関係者からは呆れられた。
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