山中正竹とは? わかりやすく解説

山中正竹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/12 03:45 UTC 版)

山中 正竹
基本情報
国籍 日本
出身地 大分県
生年月日 (1947-04-24) 1947年4月24日(77歳)
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 住友金属
  • 法政大学
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2016年
得票率 85.7%(14票中12票)
選出方法 特別表彰

山中 正竹(やまなか まさたけ、1947年4月24日 - )は、20世紀後半に活躍した社会人野球の選手(投手)、監督

1992年のバルセロナオリンピック野球日本代表監督を務め、銅メダルに導いた。

来歴・人物

大分県生まれ。大分県立佐伯鶴城高等学校ではエースとして活躍。1963年秋季九州大会は準決勝で高田高に敗退。1964年夏の甲子園予選中九州大会では決勝に進み、八代東高池田純一らと投げ合うが、8回に逆転され甲子園出場を逸する。同年の秋季九州大会でも準々決勝に進むが、高鍋高牧憲二郎に完封を喫した。翌1965年春季九州大会では決勝で小倉高安田猛に投げ勝ち優勝を飾る。しかし同年夏は県予選準決勝でまたも高田高に敗れ、甲子園には届かなかった。

法政大学経済学部に進学。1年次よりエースピッチャーとして活躍し、一年先輩の田淵幸一山本浩司富田勝ら「法政三羽ガラス」と共に、東京六大学野球リーグにおける法大の黄金時代を形成する大きな原動力となった。在学4年間で残した通算48勝は、リーグ最多勝記録である。東京六大学野球リーグでは在学中3度優勝。1968年全日本大学野球選手権大会でも、決勝でエース野村収を擁する駒大を降し優勝。1969年第8回アジア野球選手権大会日本代表。リーグ通算80試合登板、48勝13敗、防御率1.86、230奪三振、ベストナイン2回。大学同期に江本孟紀黒田正宏山田克己堀井和人佐藤治夫苑田邦夫らがいた。

大学卒業後は住友金属工業に入社し、野球部の中心選手として活躍。1970年から1976年まで7年連続で都市対抗野球大会に出場する。1970年の大会ではルーキーながら4試合に登板。チームも準決勝に進むが、安田猛を擁する大昭和製紙に大敗[1]1971年大会には新日鐵広畑の補強選手として出場。全試合に先発して4勝をあげ決勝に進出、丸善石油を降しチームの優勝に貢献した[1]。同年の第9回アジア野球選手権大会日本代表にも選出された。1972年大会でも住友金属のエースとして準決勝に進出[1]、その後も社会人野球を代表する選手として活躍した。

1976年に現役を引退し、1981年から住友金属の監督に就任。1982年には第53回都市対抗野球大会に優勝、1983年1984年と2年連続で社会人野球日本選手権大会優勝を飾った。1984年、住友金属監督を退任。

ソウルオリンピック野球日本代表1988年)コーチとして、バルセロナオリンピック野球日本代表1992年)では監督として、二度のメダル獲得に大きく貢献している。

また、1977年より1993年まで、NHK高校野球大学野球、五輪野球競技の解説者を務めた後、1994年に母校・法政大学の監督に就任。退任する2002年までの間に、工学部教授を務めながら、東京六大学野球リーグに7度、全日本大学野球選手権大会に1度優勝(1995年)するなど、指導者としても法政黄金時代を築き上げた。

2003年横浜ベイスターズの専務取締役に就任。2006年にはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)アジア代表の技術委員を務めた。その傍らで、ドラフト制度検討委員会の委員長、セントラル野球連盟理事長などを歴任し、2010年3月末に退任した。同年4月より法政大学特任教授に就任。第5回世界野球選手権大会、第16回広州アジア大会における野球競技の技術委員を務めた。その後富山県高等学校野球連盟のテクニカルアドバイザーを務める。

2016年1月19日、アマチュア野球発展に尽くした功績により野球殿堂表彰者(特別表彰部門)に選出された[2][3]。山中の野球殿堂入り表彰式は、同年5月28日の平成28年春季東京六大学野球リーグ戦最終節の早慶戦明治神宮野球場)第1戦の試合開始に先立ち、同じく野球殿堂表彰者の松本瀧蔵明治大学出身)と同時に執り行われ、熊﨑勝彦野球殿堂博物館理事長(日本野球機構コミッショナー)から掲額レリーフなどが山中に授与された[4]

2017年全日本野球協会副会長に就任[5]。同年、侍ジャパン強化委員会強化本部長に就任[6]2018年、全日本野球協会会長に就任[7]2019年アジア野球連盟副会長に就任[8]

キャリア・経歴

著書

  1. 『小さな大投手』(2010年11月:ベースボール・マガジン社

脚注

  1. ^ a b c 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  2. ^ 平成28年野球殿堂入り発表 斎藤氏、工藤氏、榎本氏、松本氏、山中氏が殿堂入り 野球殿堂博物館ニュース 2016年1月18日付
  3. ^ 中日新聞』2016年1月19日朝刊27面「工藤斎藤氏ら殿堂入り 山中、故榎本、故松本氏も」
  4. ^ 松本瀧蔵氏、山中正竹氏 平成28年野球殿堂入り表彰式』(プレスリリース)公益法人野球殿堂博物館、2016年5月28日http://www.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/news/detail.html?id=8922016年6月8日閲覧 
  5. ^ 山中正竹氏が全日本野球協会の副会長へ、来月決定 nikkansports.com
  6. ^ 侍ジャパンに強力援軍!!山中正竹氏が強化本部長就任 デイリースポーツ
  7. ^ 全日本野球協会新会長に山中正竹氏 五輪で監督経験 nikkansports.com
  8. ^ 山中正竹氏がアジア野球連盟副会長に就任 SANSPO.COM

関連項目

外部リンク




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