山田克己_(野球)とは? わかりやすく解説

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山田克己 (野球)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/12 03:43 UTC 版)

山田 克己
基本情報
国籍 日本
生年月日 1947年
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

山田 克己(やまだ かつみ、1947年 - )は、日本の元アマチュア野球選手である。ポジションは内野手遊撃手一塁手)。

来歴・人物

愛知・中京商業高校では遊撃手として活躍。1965年春の選抜に出場。しかし2回戦で藤田平を擁する市和歌山商に敗退した。同年の夏の甲子園県予選は4回戦で名古屋電気工高に敗れ、甲子園出場を果たすことができなかった。高校卒業後は法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは在学中に3度の優勝を経験。1969年春季リーグでは首位打者(12試合50打数23安打、打率.460)となり[1]優勝に貢献、同季のベストナイン(遊撃手)に選ばれた[2][3]。大学同期に山中正竹江本孟紀黒田正宏堀井和人佐藤治夫苑田邦夫らがいた。

1969年のドラフト会議南海ホークスから8位指名されたが入団を拒否し、社会人野球の大昭和製紙に入団した[4]1970年都市対抗に新人ながら一番打者として起用される。山根政明安田猛の継投で決勝に進み、三菱重工神戸を再試合の末に降し優勝を飾った[5]。同大会では優秀選手に選出される。この時のチームメイトに小田義人小松健二らがいた。1971年産業対抗でも決勝で電電北海道のエース柳俊之らを打ち崩し優勝。この大会でも優秀選手となる。1975年都市対抗では一塁手、五番打者として出場。準々決勝に進出するが、電電関東の丹利男に完封を喫した[5]1976年限りで引退。

脚注

  1. ^ 法政大学野球部”. hosei-baseball.jp. 2020年6月23日閲覧。
  2. ^ 法政大学野球部”. hosei-baseball.jp. 2020年6月23日閲覧。
  3. ^ 一般財団法人 東京六大学野球連盟”. www.big6.gr.jp. 2020年6月23日閲覧。
  4. ^ 過去のドラフト 第5回(1969年) - ドラフト会議 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2020年6月23日閲覧。
  5. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年

関連項目




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