守山恒太郎とは? わかりやすく解説

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もりやま‐つねたろう〔‐つねタラウ〕【守山恒太郎】

読み方:もりやまつねたろう

[1880〜1912]野球選手東京生まれ一高速球ドロップ駆使して活躍練習学校れんが塀(べい)にボール投げ続けついには穴をあけてしまったなどの逸話がある。東京帝大医学部卒業し軍医となるが、腸チフス感染し32歳で死去


守山恒太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/05 09:37 UTC 版)

守山 恒太郎
基本情報
国籍 日本
出身地 東京府
生年月日 (1880-04-27) 1880年4月27日
没年月日 (1912-02-12) 1912年2月12日(31歳没)
選手情報
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1966年
選出方法 特別表彰

守山 恒太郎(もりやま つねたろう、1880年4月27日 - 1912年2月12日)は、東京都出身の野球選手

経歴

獨逸学協会学校を卒業し、1899年第一高等学校へ入学。

ドロップボールを駆使して、「一高第二次黄金時代」の左投手として活躍した[1]

1901年5月に横浜外国人チーム(横浜アマチュアクラブ)と対戦し5対6で敗れた。その後、制球力を向上させるため、一塁側グラウンドの後方にあったレンガ塀に5寸大の穴が開くまで投げ続けたり、投球練習中に痛めた左肘を治すため、校庭の桜の木に左手一本でぶら下がり伸ばすなど、校友会雑誌に「上野の杜にカラスの鳴かぬ日はあれど、守山の姿を運動場に見ざる日はなし」と書かれるほど猛練習に明け暮れた[1]。そして、横浜外国人チームと1年後に再戦し、4対0の完封勝利でリベンジしている。

その後は東京帝国大学医学部を卒業して軍医になるが、伝染病研究所で研究中に腸チフスに感染し、1912年2月12日に31歳で死去した[1]

1966年野球殿堂入り。

著書

外部リンク

脚注

  1. ^ a b c 『野球殿堂 2012 The Baseball Hall of Fame』(2012年、ベースボール・マガジン社)、P.24


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