山内一弘とは?

やまうち‐かずひろ【山内一弘】


山内一弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/26 06:00 UTC 版)

山内 一弘(やまうち かずひろ、1932年昭和7年〉5月1日[1][2] - 2009年平成21年〉2月2日[3])は、愛知県一宮市奥町[注 2]出身[14][15]プロ野球選手外野手、右投右打)[5]コーチ監督[3]野球解説者評論家。旧名「山内 和弘[2](読みは同じ)。




注釈

  1. ^ a b 近藤唯之 (2006) は「身長178 cm・体重82 kg」と述べている[4]
  2. ^ a b 出身地について「愛知県犬山市出身」とする文献もある[9][10][11][12][13]
  3. ^ 16回出場したオールスターゲームで計3度のMVPを獲得したことから[17]
  4. ^ 「ミスターオリオンズ」の異称は、山内とともに「ミサイル打線」の中軸として活躍した榎本喜八の異称としても用いられる[19]
  5. ^ a b 山内の指導ぶりと同商品のキャッチフレーズ「やめられない、とまらない」をかけている[21]
  6. ^ a b 1956年に川上哲治がNPB史上初の2000安打を達成した当時、2000安打は「今後数年、続くもの望めず」と報じられていた[88]
  7. ^ 起工業学校は山内の入学当時、6年教育の旧制中学校だったが、山内が在学中の1947年(昭和22年)に新しい教育制度が施行されたことにより[25]、1948年(昭和23年)4月には愛知県立起工業高等学校に改称した[2]
  8. ^ 捕手から三塁手、遊撃手と守備位置を転々とした」とする文献もある[27]
  9. ^ 「同校ではエースかつ4番打者を務めたが、同校の野球部は軟式野球部だったため、甲子園(硬式野球の大会)には縁がなかった」とする文献もある[33]
  10. ^ 肺結核は当時、死亡率の高い病気だったが、当時幼子を抱えた妻を持っていた瀧は肋骨切除手術を受け、医師が驚くほどの回復力により11月末に退院した[37]
  11. ^ 平岩は瀧の名古屋高商の先輩に当たるが、当時は瀧との面識はなかった[40]
  12. ^ 近藤によれば、高田は後の昭和31年(1956年)にも、当時立教大学硬式野球部(2年生)に所属していた杉浦忠(愛知県豊田市出身)が砂押邦信監督についていけなくなり、同期の長嶋茂雄とともに中日球団事務所を訪れ「契約金はいらないから入団させて欲しい」と申し出た際にも「大学生は勉強が本分だ。卒業してからの話にしよう」と諭し[41]、彼らの申し出を断った[42]。ただし、長嶋や杉浦にとって立教大学の先輩に当たる坪内道典(中日OB)は自著『風雪の中の野球半世記』で、その出来事について「1955年9月、杉浦と長嶋が東京・西銀座にあった中日球団事務所を訪れ、『中日に入団させて欲しい』と申し出たが、応対した中村三五郎球団代表に諭されて帰った」と述べている[43][44]。結局、山内・杉浦・長嶋の3人はいずれも後に野球殿堂入りを果たしている[42]
  13. ^ 森は元阪急の投手で、1941年(昭和16年)に30勝を挙げて最多勝を獲得した(通算112勝)[46]。また一宮市出身で、瀧と面識があった[36]
  14. ^ 元チームメイトは山内の訃報に際し、彼が投手から左翼手に転向した理由について「コントロールが悪かった」と述べている[30]。また、監督を務めていた森は山内に投手としての適性を感じず、外野での球拾いを命じた[47]
  15. ^ チームはこれが同大会初出場。
  16. ^ 山内のプロ入り(毎日入団)当時、毎日球団は外野手が不足していた[53]
  17. ^ 黄疸による[56]
  18. ^ ニューヨーク・ヤンキースの捕手ヨギ・ベラモデル[17]
  19. ^ 45二塁打で迎えた同シーズン最終戦(同年10月8日の対高橋ユニオンズ戦・浦和球場)で第2打席に二塁打を打って46本目の二塁打を記録し、大沢清大洋ホエールズ)が1950年に記録したシーズン45二塁打の記録を更新[65]。6回にも同日2本目の二塁打を打った[65]
  20. ^ また同年7月5日、パ・リーグ優勝を争っていた南海戦では満塁本塁打を含む1試合3本塁打9打点を記録した[69]
  21. ^ 杉山は418打数135安打(打率.323)、山内は425打数136安打(打率.320)[73]
  22. ^ 同僚の葛城と本塁打王争いをしていたが[75]、葛城は最終的に山内(25本塁打)と1本差の24本塁打に終わっている[60]
  23. ^ 同年の大毎打線はチーム打率が12球団中最高の.262を記録[78]。榎本が打率.344で首位打者を獲得し、2位は田宮(打率.317)、3位は山内(打率.313)と[79]、大毎打線が打率ランキングの1位 - 3位を独占した[77]。また、葛城も打率.295でリーグ6位に入り[79]、この4人が打った安打数は600本超に達した[78]
  24. ^ 1960年のオープン戦で乱視に気づき、すぐに眼鏡着用を考えたが、この時は巨人とのオープン戦で川上哲治監督から「(眼鏡を掛けるのは)調子がおかしくなったときでいいんじゃないか」とアドバイスされたため、それ以降は眼鏡無しで試合に臨んでいた[82]
  25. ^ 阪神の打者が31本塁打を記録した年は当時、14年ぶりだった[84]
  26. ^ 打点は王貞治(巨人)・桑田武(大洋)に次ぐセ・リーグ3位[85]
  27. ^ 同年の阪神は初めてチーム本塁打数が100本以上(114本)に達した[52]
  28. ^ 25打数9安打3打点を記録。
  29. ^ 正式な入団発表は1968年1月6日[89]
  30. ^ 2年目(2002年 - 2003年)シーズン終了後の2003年4月17日に監督を退任[95]し、後任には古葉竹識が就任[96]
  31. ^ 「賞金泥棒」「大泥棒」の異名は、山内がオールスターで毎年のように活躍しては賞品・賞金などを手にしていくさまから名付けられた[17][106]
  32. ^ 1954年以前は一部のデータが不十分で正確な数値が割り出せないため、山内は暫定的な概算値が含められる対象選手となる。しかし山内の場合はレギュラーに定着したのが1954年からであり、概算値を含めなかった場合でも歴代5位付近に位置する。
  33. ^ 内訳はパ・リーグで317本、セ・リーグで131本[108]
  34. ^ 1位の立浪和義(487本)・2位の福本豊(449本)[109]はいずれも左打者である。
  35. ^ 当時のロッテはコーチ陣の待遇が他球団より(年俸が低いなど)悪く、山内が手腕を評価して招聘したコーチが次々と他球団へ好条件で引き抜かれていた[20]。また山内と親しかったロッテ応援団長・松本真一は著書『プロ野球応援団長』で、山内がロッテ監督を辞任した理由について、チームがプレーオフに進出したにもかかわらず、球団が選手の年俸を上げてこなかったことに対し不満を抱いていた旨を述べている[112]
  36. ^ 1983年の中日打線は大島康徳が36本塁打を放ち、初の本塁打王を獲得したほか、田尾安志が打率.318(リーグ3位)、谷沢健一が(リーグ5位)を記録した[113]。しかし中尾孝義(前年にセ・リーグMVPを獲得)やモッカが不調に終わり、チーム打率はセ・リーグ最下位(.263)で順位も5位に低迷し、近藤貞雄監督は同年限りで辞任した[113]
  37. ^ 同年6月29日の対横浜大洋ホエールズ戦(横浜スタジアム[114]では25安打・22点(毎回得点)を記録している[113]
  38. ^ 谷沢は同年セ・リーグ2位の打率.3287を記録[113]
  39. ^ またこのころ、中尾が肩の重傷で戦線離脱した[116]
  40. ^ a b 高橋慶彦は1983年春季キャンプで広島の臨時コーチを務めた山内から打撃指導を受け、それまでの左打席の際の上から叩きつける打法をレベルスイングに矯正したところ、本塁打数は前年(1982年)の6本から24本に激増した[21]。山内の訃報を受け、高橋(2009年当時はロッテの打撃コーチ)は「プロ野球で活躍し、現在打撃コーチとして選手たちを指導できているのは山内さんのおかげ」と述べている[121]
  41. ^ その後はシーズン終了まで高木守道が監督代理を務め、同年オフには星野仙一が新監督に就任した[116]。高木が代理監督に就任して以降、7月末にはリーグ4位に浮上したが、9月に入って連敗が続き、最終試合で大洋に敗れたことで5位が確定した[120]
  42. ^ これは、初の自主トレーニングでフリー打撃をしていたところ、自身の打撃フォームを酷評した前監督・金田正一の意見に山内が賛同したことに落合が反発したためだった[124]。山内は落合を評価していたためか、熱心に打撃理論を説いたが、当時の落合は山内の打撃理論を理解できなかった[124]
  43. ^ 落合は「山内さんの指導を拒み、自分のスイングを自分自身で作り上げることになった自分は土肥健二さん(3歳年上)のスイングを参考に自身の打撃フォームを作った。しかし首位打者争いをしているころ、自分は『内角球への対処がうまい』と評されていたが、その打撃は現役時代に『シュート打ちの名人』と呼ばれた山内さんの打撃フォームと似ていることに気づいた。自分は無意識のうちに山内さんのスイングを習得していた」「山内さんは(自身が首位打者を獲得した1981年)シーズン終盤、自分に首位打者を取らせようといろいろなサポートをしてくれた」と述べている[125]
  44. ^ 「(上田は)鶴岡一人の推薦もあって西本阪急のコーチに就任した」とする文献もある[130]
  45. ^ ホームラン』(日本スポーツ出版社)の選手名鑑では肩書はヘッドコーチ[9][10][11]
  46. ^ 東京新聞』(中日新聞東京本社)は2004年10月1日付の朝刊コラム「筆洗」で、「打撃コーチとしての手腕を買われて各球団を渡り歩いた名伯楽である山内が『君、そのフォームじゃプロでやっていけないよ』とさじを投げた新人選手は落合博満とイチローの2人だった」と述べている[132]。また、会田豊彦は山内の訃報に際し、「イチローのデビューが遅れたのは『名人』(山内)の目に留まらなかったからだと言われている。(山内は)彼(イチロー)のその後をどんな思い出見つめていたのだろうか」と述べている[105]

出典

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