ジョージ・アリアスとは? わかりやすく解説

ジョージ・アリアス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/07 03:42 UTC 版)

ジョージ・アリアス
George Arias
2018年5月9日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 アリゾナ州ツーソン
生年月日 (1972-03-12) 1972年3月12日(53歳)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
205 lb =約93 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手三塁手
プロ入り 1993年 MLBドラフト7巡目
初出場 MLB / 1996年4月2日
NPB / 2000年4月1日
最終出場 MLB / 1999年7月28日
NPB / 2006年7月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ジョージ・アルベルト・アリアスGeorge Alberto Arias, 1972年3月12日 - )は、アメリカ合衆国アリゾナ州[1]出身の元プロ野球選手内野手)。

経歴

プロ入りとエンゼルス時代

1993年MLBドラフト7巡目でカリフォルニア・エンゼルスに指名され契約[1]1995年にはAA級で30本塁打を記録した[2]

1997年サンディエゴ・パドレスへ移籍する[2]1998年ケン・カミニティの控え三塁手として起用され、打率.194の成績を残していた[2]。同年オフには初芝清を指名打者として固定起用する構想を立てていた千葉ロッテマリーンズが、新たな三塁手候補としてアリアスの獲得交渉を行っており、ロッテと業務提携していたパドレスもFA宣言したカミニティが残留した場合はアリアスのロッテ移籍を認めることで合意していたが[2]、最終的にカミニティはヒューストン・アストロズに移籍し、アリアスのロッテ移籍は実現しなかった。

1999年オフにフリーエージェント(FA)となった後、リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルでプレーしていた。

オリックス時代

リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルでのプレーを評価され、当時のオリックス・ブルーウェーブの監督であった仰木彬の片腕となることが決まっていた高畠康真が巡回中に目をつけ、球団の了解を得てスカウトし1999年12月2日オリックスと契約の合意に達し、翌2000年1月12日正式に入団が発表された[1]。仰木が登録名に愛称を用いることが好きだったこともあり、開幕直前に登録名を「ジョージ」に変更したが、登録名を変えてから絶不調が続いたため、再び「アリアス」に戻している。

2000年は打率2割5分だったが26本塁打を記録した。

2年目の2001年は38本の活躍を見せ、チーム内最多打点などの記録を2年連続で残し、8月28日の西武ライオンズ戦では豊田清からサヨナラ3ラン本塁打を放った。出塁率の低さや、当時の他球団の外国人選手と比べると今一歩見劣りするという理由で、球団側は年俸交渉でほとんどアップを提示しなかった。一方2年契約だったアリアスは勝利試合への貢献度や打線の牽引役としての働きを訴えて大幅アップを主張した。結局交渉は決裂し、11月30日に退団した。

阪神時代

2001年12月25日に阪神タイガースへの入団が決定した[1]。年俸2億5,000万円プラス出来高払い5,000万円(2年契約)の大型契約を締結した。獲得の背景には、同年12月に就任した星野仙一がアリアスの獲得を強く要望したことがある。

2002年開幕戦の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)で移籍第1号本塁打を放った。この年3番を担った片岡篤史とのコンビは阪神の強力打線の口火となった。この年はチームでは1989年セシル・フィルダー以来の30本塁打以上[3]となる32本塁打を放ち、82打点と活躍したが、チームは4位に沈んだ。

2003年は6番で開幕し、4月11日の対巨人戦で、来日100号本塁打を放った。5月9日の対横浜ベイスターズ戦では吉見祐治から濱中おさむ、片岡と共にレフトスタンドへ本塁打を放ち、平成の3連発を完成させた。また、6月中盤からは主に5番打者として出場した。優勝争いの真っ只中である9月7日の対横浜戦で、第32号満塁本塁打を放ち、球団史上最多タイのシーズン80勝に貢献。最終的に38本塁打、107打点(チームとしては1986年のランディ・バース以来の100打点超え)で本塁打王・打点王を争う活躍を見せ、18年ぶりの阪神のリーグ優勝に貢献した。9月17日の対広島東洋カープ戦では、消化試合だったため1番で先発し、来日初となる初回先頭打者本塁打を放った。また、守備も安定しており一塁手としてベストナインゴールデングラブ賞を受賞した。

2004年も開幕から6番でスタメン出場を続けたが、6月に腰痛で登録抹消となり、7月に復帰したものの、この年新たに監督に就任した岡田彰布からは「勝負弱さ」「好不調の波が激しい」と指摘され、ベンチに下げられる場面も見られた。この後チームも首位争いから一気に脱落し、4位に終わった。アリアス自身は打率.272, 25本塁打、84打点と引き続き結果を残したが、同年オフ、45本塁打・103打点の活躍ながら横浜を退団濃厚となっていたタイロン・ウッズの獲得を目指すチーム方針が固まり、ウッズに比べ成績面で劣っているアリアスの立場は一層不利になった。3億円を超える高年俸もネックとなり、12月1日に正式に退団が発表された。

ナショナルズ傘下時代

2005年ワシントン・ナショナルズとマイナー契約を結んだが、4月にフリーエージェントとなった。その後はリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルティフアナ・コルツでプレーしていた。

巨人時代

日本球界復帰を目指していたアリアスのこれまでの日本での実績、本拠地の東京ドームとの相性の良さなどに巨人が着目し、2006年シーズン途中の6月28日に巨人と契約した。

チームに故障者が続出する中、7月5日の対中日ドラゴンズ戦で6番・左翼手として初出場したが、結果を残すことができず二軍降格。わずか17試合出場に終わり、この年限りでの退団が同年11月2日に発表された。帰国の際、「チームを救済できずに申し訳ない」と話した上で、「阪神では信念や希望を持ち、何より野球は楽しむものだと感じた。巨人にはいいプレイヤーがいるが、重圧に負け野球を楽しんでいない」と語った。

引退後

その後、現役引退を発表し、2015年4月から地元のツーソンにて、センターフィールドベースボールアカデミーのオーナーを務めており[4]、ジュニア世代のツーソンチャンプベースボールクラブを運営している。

2021年6月1日、巨人米国OBスカウト中地区担当に就任。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1996 CAL
ANA
84 274 252 19 60 8 1 6 88 28 2 0 6 0 16 2 0 50 6 .238 .284 .349 .633
1997 3 6 6 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .333 .333 .333 .667
SD 11 22 22 2 5 1 0 0 6 2 0 0 0 0 0 0 0 1 2 .227 .227 .273 .500
'97計 14 28 28 3 7 1 0 0 8 3 0 0 0 0 0 0 0 1 2 .250 .250 .286 .536
1998 20 41 36 4 7 1 1 1 13 4 0 0 0 0 3 0 2 16 0 .194 .293 .361 .654
1999 55 170 164 20 40 8 0 7 69 20 0 0 0 0 6 0 0 54 6 .244 .271 .421 .691
2000 オリックス 116 461 412 66 103 21 0 26 202 61 2 0 0 3 43 4 3 110 6 .250 .326 .490 .816
2001 139 603 543 70 142 19 1 38 277 97 3 1 0 7 49 3 4 104 14 .262 .323 .510 .833
2002 阪神 126 523 473 64 122 29 1 32 249 82 3 3 0 6 43 2 1 126 10 .258 .317 .526 .843
2003 124 518 464 89 123 25 0 38 262 107 2 1 0 4 44 1 6 130 6 .265 .334 .565 .899
2004 117 451 412 54 112 26 1 25 215 84 3 0 0 4 33 4 2 119 5 .272 .326 .522 .848
2006 巨人 17 64 60 5 10 2 0 2 18 5 0 1 0 0 4 0 0 15 0 .167 .219 .300 .519
MLB:4年 173 513 480 46 114 18 2 14 178 55 2 0 6 0 25 2 2 121 14 .238 .278 .371 .649
NPB:6年 639 2620 2364 348 612 122 3 161 1223 436 13 6 0 24 216 14 16 604 41 .259 .322 .517 .839
  • CAL(カリフォルニア・エンゼルス)は、1997年にANA(アナハイム・エンゼルス)に球団名を変更

表彰

NPB

記録

NPB
NPB初記録
NPB節目の記録
NPB節目の記録
  •  グリーンスタジアム神戸における年間最多本塁打 19本(2001年)[5]

背番号

  • 5 (1996年、2000年 - 2001年)
  • 7 (1997年 - 1997年途中)
  • 14 (1997年途中 - 1999年、2002年 - 2004年)
  • 91 (2006年)

脚注

  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、23ページ
  2. ^ a b c d スポーツ報知』1998年11月1日付第9版4頁「ロッテ新外国人 アリアス三塁手獲得へ」(報知新聞社
  3. ^ 山田隆道『阪神タイガース 暗黒のダメ虎史 あのとき虎は弱かった』222頁
  4. ^ Baseball Instructors-Centerfield Baseball & Softball Academy Staff”. Centerfield Baseball & Softball Academy (2015年4月1日). 2018年10月27日閲覧。
  5. ^ 球場情報 球場詳細 ほっともっとフィールド神戸” (2024年3月8日). 2025年1月13日閲覧。

関連項目

外部リンク





固有名詞の分類

アメリカ合衆国の野球選手 トニー・タラスコ  ザック・ウィート  ジョージ・アリアス  ロッキー・コラビト  チャド・コルデロ
阪神タイガース及びその前身球団の選手 ダーウィン・クビアン  トニー・タラスコ  ジョージ・アリアス  久保康友  村上雅則
読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 永池恭男  佐野元国  ジョージ・アリアス  笠原将生  織田淳哉
オリックス・ブルーウェーブ及びその前身球団の選手 具臺晟  斉藤巧  ジョージ・アリアス  野中徹博  冨田勇
サンディエゴ・パドレスの選手 ジョーイ・コーラ  イスマエル・バルデス  ジョージ・アリアス  オリバー・ペレス  ポール・クアントリル
ロサンゼルス・エンゼルス及びその前身球団の選手 ラリー・ハーロー  イスマエル・バルデス  ジョージ・アリアス  フレッド・クハウルア  ジョン・ガーランド

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