ルイス・ロペス (1964年生の内野手)
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AAA級サンアントニオ時代
(1988年) |
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | ニューヨーク州ニューヨークブルックリン区 |
| 生年月日 | 1964年9月1日(61歳) |
| 身長 体重 |
6' 1" =約185.4 cm 190 lb =約86.2 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 一塁手、捕手 |
| プロ入り | 1983年 MLBドラフト2巡目 |
| 初出場 | MLB / 1990年9月14日 NPB / 1996年4月5日 |
| 最終出場 | MLB / 1991年10月6日 NPB / 2002年8月28日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴
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コーチ歴
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この表について
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ルイス・アントニオ・ロペス(Luis Antonio Lopez , 1964年9月1日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州出身の元プロ野球選手(内野手)。
経歴
広島入団前
ニューヨーク市にあったラファイエット高等学校から、1983年のMLBドラフト2巡目でロサンゼルス・ドジャースに入団。1990年9月14日、メジャーデビューを果たす。
1991年、クリーブランド・インディアンスに移籍。メジャー再昇格を果たす。MLB通算成績は2年間で41試合出場、打率.250[1]。
1992年以降はメジャー昇格はできず、1994年にアトランタ・ブレーブスに移籍するも、1995年にはインディアンズに復帰した。1995年はインディアンス傘下のマイナー球団であるAAA級バッファローで打率.262、17本塁打、66打点を記録していた[1]。なお、左投手相手には打率.303の好成績を残していた[2]。
第1次広島時代
1995年12月27日、NPBの広島東洋カープがロペスの入団を発表した[1]。当初は1996年シーズンのみの1年契約で、契約金1500万円、年俸6000万円+出来高払いという契約条件だった[1]。背番号は2[1]。1996年の春季キャンプではスイングの軌道が安定せず打球も飛ばず、しかも走力もなかった。シーズンでの活躍を不安視されたが、チーフ兼打撃コーチの山本一義がスイングを矯正したところ、打撃が開眼。
1996年から2年連続で打点王、1997年には最多安打のタイトルを獲得するなど活躍した。好機で勝負強く、しぶとい打撃でチームに活力を与えた。また「タイトルや個人成績よりも、僕はチームが勝つために仕事をしているんだ」と常々語るなど、チームプレーに徹する姿勢も好感を呼び「広島史上最強の外国人選手」とも称された。1996年オフの契約更改では、ロペス側は2年契約を求めたが[3]、最終的には球団側の1年契約提示を受け入れ、年俸1億2000万円+出来高の1年契約で更改した[4]。
1997年シーズンは打率.302、30本塁打、112打点の好成績を残し[5]、2年連続で打点王に輝く[6]。オフの契約更改でロペスの代理人を務めていたクリス・アーノルドは年俸170万ドル(当時の為替レートで約2億1000万円)の2年契約を要求したが[7]、球団側の提示した契約は年俸120万ドル(約1億5000万円)の2年契約だったため、契約交渉は決裂した[5]。交渉決裂時は自由契約になるとの契約条項があったことから、広島は契約交渉を打ち切り、ロペスは退団が決まった[6]。解雇の要因としてはロペス側と球団側の双方の主張の溝の大きさに加え、一塁手の守備と走塁面におけるマイナスが小さくないという見解が現場やフロントから挙がっていたことも挙げられている[7]。広島は当時、一塁に浅井樹や町田公二郎がいたことに加え、カープアカデミー出身のティモ・ペレスやアルフォンソ・ソリアーノが力をつけていたことから、新外国人選手として投手を補強する方針であり、ロペスの後釜として野手を調査することは考えていなかった[7]。
福岡ダイエー時代
その後、福岡ダイエーホークスがロペスの獲得に動き[5]、1997年12月2日に獲得を発表した[8]。年俸と契約金併せて1億5000万円の1年契約であった[8]。
1998年はプロ野球脱税事件を受けて開幕から出場停止処分となっていた主砲の小久保裕紀の穴を埋める存在として期待された[9]。最終的には打率.294、17本塁打、68打点の成績を残したが[10]、シーズンオフの11月14日、ダイエーはロペスの代理人に解雇を通告した[11]。
アメリカ独立リーグ時代
1999年から2000年の途中まで、アメリカの独立リーグのアトランティックリーグに加盟しているサマセット・パトリオッツでプレーした。
第2次広島時代
2000年のシーズン途中、江藤智が抜けた穴を埋めるべく入団したジェフ・ボールが期待外れで早々に解雇されるなど、長打力不足に悩む広島の再オファーを受けて3年ぶりに復帰。93試合で打率.313、20本塁打、88打点、翌2001年も138試合で打率.308、32本塁打、100打点をマークするなど再び主力打者として活躍した。
2002年シーズン前のキャンプで、ロペスはシーズンの目標を問う取材に対し「打率.350、56本塁打、160打点」という数字を掲げた。しかし、4月6日の対中日ドラゴンズ2回戦(広島市民球場)の8回裏、二塁に前田智徳を置いた場面で、ロペスが中前打を放った際に前田は三塁で止まり加点できなかったことに憤慨し、ダッグアウト裏で前田に「どうして本塁に走らなかったんだ」などと激しく詰め寄り、つかみかかる騒ぎを起こした[12]。前田はアキレス腱などの故障歴があるなど足に不安を抱えているため、無理な走塁はできない状態であり[12]、さらに当日は雨の影響でグラウンド状態が悪く、前田は普段以上に足を気遣いながらのプレーを余儀なくされていた。[要出典]4月7日、球団フロントと山本浩二監督による事情聴取に応じたロペスは「打点が欲しかったからやったわけじゃないんだ」と釈明したが、事態を重く見た球団はロペスの出場選手登録を抹消、10日間の謹慎を科した上で 二軍の練習参加も禁じる厳罰を下した。[要出典] 前田とは話し合いの機会を持って和解している。[要出典]騒ぎが起きた4月7日まで.417だった打率は、モチベーションの低下から急降下し、シーズン途中で退団した。
広島退団後
2003年と2004年は、再びサマセット・パトリオッツでプレーした。
引退後
2006年、東北楽天ゴールデンイーグルスの駐米スカウトに就任[注 1]。2010年は楽天の二軍打撃コーチを務めた。
2012年より横浜DeNAベイスターズ国際担当スカウトを務める。
選手としての特徴
広島入団当時は、ミートに長けた中距離打者であり[1]、一塁手と外野手をこなせる好打者と評されていた[2]。
詳細情報
年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1990 | LAD | 6 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
| 1991 | CLE | 35 | 89 | 82 | 7 | 18 | 4 | 1 | 0 | 24 | 7 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4 | 1 | 1 | 7 | 0 | .220 | .261 | .293 | .554 |
| 1996 | 広島 | 130 | 545 | 503 | 66 | 157 | 29 | 1 | 25 | 263 | 109 | 2 | 1 | 0 | 4 | 34 | 0 | 4 | 48 | 23 | .312 | .358 | .523 | .881 |
| 1997 | 134 | 580 | 532 | 80 | 170 | 37 | 0 | 30 | 297 | 112 | 0 | 0 | 0 | 6 | 36 | 1 | 6 | 58 | 15 | .320 | .366 | .558 | .924 | |
| 1998 | ダイエー | 134 | 527 | 480 | 58 | 141 | 35 | 0 | 17 | 227 | 68 | 1 | 3 | 1 | 5 | 34 | 2 | 7 | 34 | 14 | .294 | .346 | .473 | .819 |
| 2000 | 広島 | 93 | 377 | 351 | 43 | 110 | 10 | 0 | 20 | 180 | 88 | 0 | 0 | 0 | 6 | 16 | 0 | 4 | 37 | 12 | .313 | .345 | .513 | .858 |
| 2001 | 138 | 561 | 493 | 53 | 152 | 21 | 0 | 32 | 269 | 100 | 0 | 2 | 3 | 7 | 51 | 4 | 7 | 35 | 22 | .308 | .376 | .546 | .922 | |
| 2002 | 80 | 276 | 265 | 12 | 65 | 11 | 1 | 5 | 93 | 33 | 0 | 0 | 0 | 3 | 6 | 1 | 2 | 23 | 8 | .245 | .264 | .351 | .615 | |
| MLB:2年 | 41 | 95 | 88 | 7 | 18 | 4 | 1 | 0 | 24 | 7 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4 | 1 | 1 | 9 | 0 | .205 | .245 | .273 | .517 | |
| NPB:6年 | 709 | 2866 | 2624 | 312 | 795 | 143 | 2 | 129 | 1329 | 510 | 3 | 6 | 4 | 31 | 177 | 8 | 30 | 235 | 94 | .303 | .350 | .506 | .856 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
記録
- NPB
- 初出場・初先発出場:1996年4月5日、対中日ドラゴンズ1回戦(広島市民球場)、6番・一塁手として先発出場
- 初打席・初安打:同上、2回裏に今中慎二から
- 初打点:同上、7回裏に今中慎二から中前適時打
- 初盗塁:1996年4月9日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、9回表に二盗(投手:佐々木主浩、捕手:谷繁元信)
- 初本塁打:1996年4月13日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、5回表に湯舟敏郎から左越決勝ソロ
- 100本塁打:2001年5月9日、対読売ジャイアンツ8回戦(広島市民球場)、2回裏に鄭珉哲から左越ソロ ※史上212人目
背番号
- 12 (1990年)
- 22 (1991年)
- 2 (1996年 - 1997年)
- 44 (1998年)
- 33 (2000年 - 2002年)
- 79 (2010年)
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f 『読売新聞』1995年12月28日東京朝刊スポーツA面15頁「広島が元大リーガーのルイス・ロペス内野手と契約 年俸6000万円」(読売新聞東京本社)
- ^ a b 『読売新聞』1995年12月2日東京朝刊スポーツA面23頁「【広島】広島に好打者ロペスが内定」(読売新聞東京本社)
- ^ 『産経新聞』1996年12月1日東京朝刊運動1面「ロペスと広島 来季契約合意」(産経新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1996年12月1日東京朝刊第1スポーツ面29頁「プロ野球契約更改情報(1日)」(朝日新聞東京本社)
- ^ a b c 『読売新聞』1997年11月11日大阪朝刊スポーツA面20頁「プロ野球 広島のルイス・ロペス内野手が退団 ダイエー、獲得に意欲」(読売新聞大阪本社)
- ^ a b 『朝日新聞』1997年11月11日東京朝刊第1スポーツ面19頁「ロペス内野手が広島退団 契約決裂で移籍は確実 プロ野球」(朝日新聞東京本社)
- ^ a b c 『中日スポーツ』1997年11月11日付第5版2頁「広島、ロペスを解雇 更改交渉で9千万円の差」(中日新聞社)
- ^ a b 『朝日新聞』1997年12月3日東京朝刊第1スポーツ面25頁「ダイエー、元広島のロペス内示唆野手を獲得 プロ野球」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『産経新聞』1997年12月6日東京朝刊運動3面「脱税事件余波 揺れる球界 背に腹代えられぬ補強作戦異変」(産経新聞東京本社 プロ野球取材班)
- ^ 『産経新聞』1998年11月14日東京朝刊運動1面「【球団短信】13日 ダイエー」(産経新聞東京本社)
- ^ 『読売新聞』1998年11月15日東京朝刊スポーツD面20頁「ダイエーのロペスら3外国人が解雇/プロ野球」(読売新聞東京本社)
- ^ a b “助っ人トラブル 審判にボール投げつけた投手には罰金4000万円”. スポーツニッポン. 2016年6月28日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 個人年度別成績 L.ロペス - NPB.jp 日本野球機構
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- ルイス・ロペス_(1964年生の内野手)のページへのリンク
