サンディエゴ・パドレス
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サンディエゴ・パドレス(英語: San Diego Padres、略称: SD、パ軍)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)ナショナルリーグ西地区所属のプロ野球チーム。本拠地はカリフォルニア州サンディエゴにあるペトコ・パーク。
注釈
- ^ 同年2月28日、フィラデルフィア・フィリーズとブライス・ハーパーに13年3.3億ドルの契約で抜かれた。
出典
- ^ “球団史上最高額 パドレスがマイヤーズと契約延長「優勝を狙うチーム核に」”. スポーツニッポン (2017年1月18日). 2018年4月7日閲覧。
- ^ “パドレス、球団史上最大の8年契約でE・ホズマーを獲得”. en:Sporting News (2018年2月19日). 2018年4月7日閲覧。
- ^ “マチャドがパドレスと合意FA最高10年330億円”. nikkansports.com. 2019年3月1日閲覧。
- ^ “パドレスとロッキーズ、4連戦で驚異の92得点 - MLB : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2019年6月18日閲覧。
- ^ “史上最多の4試合計92得点 計131安打が乱れ飛ぶ歴史的大乱打戦シリーズが…”. Full-count | フルカウント ―野球・MLBの総合コラムサイト―. 2019年6月18日閲覧。
- ^ “ロッキーズ対パドレス、4連戦で両チーム合計92得点のMLB記録 ブラックモンは4戦15安打”. ベースボールチャンネル(BaseBall Channel). 2019年6月18日閲覧。
- ^ “パドレスの大補強。3日間に6件のトレードを成立させ、10人を獲得。捕手は2人を入れ替え(宇根夏樹) - Yahoo!ニュース”. Yahoo!ニュース 個人. 2020年9月21日閲覧。
- ^ “パドレス勝利、14年ぶりにプレーオフ進出 - MLB : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2020年9月21日閲覧。
- ^ “14-yr. deal! Tatis in SD for long haul” (英語). MLB.com. 2021年2月23日閲覧。
- ^ “Largest contract extensions in MLB history” (英語). MLB.com. 2021年2月23日閲覧。
- ^ “Former Pirates Pitcher Joe Musgrove Throws No-Hitter For Padres” (英語) (2021年4月9日). 2021年4月10日閲覧。
- ^ AJ Cassavell (2021年7月16日). “Cronenworth gets cycle as SD scores 24” (英語). MLB.com. 2021年7月17日閲覧。
- ^ “160 Players Become XX(B) Free Agents” (英語). mlbplayers.com (2021年11月3日). 2021年11月5日閲覧。
- ^ “Padres Acquire LHP Ray Kerr & OF Corey Rosier from Mariners” (英語). MLB.com Press Release (2021年11月27日). 2021年11月28日閲覧。
- 1 サンディエゴ・パドレスとは
- 2 サンディエゴ・パドレスの概要
- 3 選手名鑑
- 4 パドレス野球殿堂
- 5 関連項目
サンディエゴ・パドレス
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「カリル・グリーン」の記事における「サンディエゴ・パドレス」の解説
2002年6月にドラフト1巡目(全体13位)でサンディエゴ・パドレスから指名されプロ入り。2年目の2003年には、マイナーAAA級ポートランドで76試合に出場して打率.288・10本塁打・47打点を記録、9月にはメジャーへ昇格し3日にメジャーデビューを果たしている。American Baha'i 紙の編集部によると、バハイ教信者の選手がメジャーでプレイしたのは、1969年にアルバート・ラフォーがフィリーズで1年だけプレイして以来史上2人目のことだという。翌2004年に本格的にメジャー定着し、139試合に出場。9月に骨折で戦線離脱したものの、チームの新人遊撃手記録となる15本塁打を放つなど攻守で活躍。シーズン終了後には新人王投票でジェイソン・ベイ(パイレーツ)に次ぐ票を集めた。 2005年・2006年の2シーズンは故障に悩まされ計3度の故障者リスト入り。特に2006年は、シーズン開幕前からグリーンとジョシュ・バーフィールドの若手二遊間コンビに球団から大きな期待がかけられていたが、8月に左手中指の負傷で故障者リスト入りし、9月に復帰した後も代走としての出場が精一杯な状態であった。2007年は大きな怪我もなくシーズンを乗り切り、打率こそ例年並みの.254に留まったが、自己最多の27本塁打を放った。そして、同年オフには、2年1100万ドルで契約延長を果たした。しかし2008年は逆に打撃不振に陥り、打率などで自己最低の成績を記録。7月30日の試合でシーズン100個目の三振を喫した直後、ストレスから壁を殴って左手を骨折し、そのままシーズンを終えた。これに対してパドレスは、欠場した期間の給料支払いを拒否しようとしたが、これは選手会の反対により実現しなかった。
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サンディエゴ・パドレス
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「スティーブ・フィンリー」の記事における「サンディエゴ・パドレス」の解説
1995年は打率.297・36盗塁を記録し、初のゴールドグラブ賞を受賞。1996年は長打力が増し、打率.298・195安打・45二塁打・30本塁打・95打点・126得点を記録、チームの12年ぶりの地区優勝に大きく貢献する。自身初のポストシーズンとなったセントルイス・カージナルスとのディビジョンシリーズは12打数1安打に終わり、チームも3連敗で敗退した。2年連続でゴールドグラブ賞を受賞し、MVPの投票でも10位に入った。1997年はオールスターゲームに初めて選出される。1998年は打率.249・14本塁打、キャリアワーストの103三振など不振だったが、チームは2年ぶりに地区優勝を果たす。古巣アストロズとのディビジョンシリーズでは打率.100に終わるが、ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.333と活躍し、14年ぶりのリーグ優勝に貢献した。しかしニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは打率.083と振るわず、チームも4連敗と一蹴された。シリーズ直後にフリーエージェントとなり、12月18日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスと4年契約を結び移籍。
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サンディエゴ・パドレス
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「ラマー・ホイト」の記事における「サンディエゴ・パドレス」の解説
1985年は移籍1年目ながら開幕投手を務め、5月20日から3完封を含む11連勝を記録し、オールスターゲームに初めて選出されて先発投手を務め、オールスターMVPを獲得した。後半戦は故障もあって4勝に留まるが、16勝8敗・防御率3.47、210.1イニングで20四球(9イニング平均0.86)と復活を遂げた。1986年1月と2月の2度に渡って麻薬所持の現行犯で逮捕。ホワイトソックス時代から麻薬の常習者との噂があったが(それが放出の一因にもなった)、それが明るみに出る格好となった。2度目の逮捕後に9日間のリハビリプログラムを受けることを義務付けられ、調整が遅れたこともあり不調。終盤はリリーフに回るなど8勝11敗・防御率5.15と不本意な成績に終わった。12月16日に麻薬を所持して車を運転しているところをメキシコとの国境近くを警備していた警察官に見つかり逮捕。パドレスから解雇され、ピーター・ユベロスコミッショナーから1年間の出場停止処分を科された。 1988年に古巣ホワイトソックスからスプリングトレーニングでチャンスを与えられたがメジャー復帰は叶わず、現役引退。 以後麻薬からは手を引き、2004年までホワイトソックスでインストラクター等を務めた。
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サンディエゴ・パドレス
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「1969年のメジャーリーグベースボール」の記事における「サンディエゴ・パドレス」の解説
カリフォルニア州サンディエゴには1936年からマイナーリーグ(パシフィックコーストリーグ)所属のパドレスが存在し、地元出身の大打者テッド・ウィリアムズがプレイしていたこともある。チームの所有者で、この年大統領に就任したリチャード・ニクソンの友人でもあった銀行家のアーンホルト・スミスは、ブランチ・リッキーのコンチネンタルリーグ構想に参画していた。構想は頓挫したものの、地元カリフォルニア州で3番目のMLB球団を持つことを念頭に、1960年代に入ってから地元紙サンディエゴ・ユニオンの新聞記者で運動部長のジャック・マーフィーと共に、球団の誘致と新球場の建設に邁進した。1967年にサンディエゴ・スタジアムが完成し、まずAFLサンディエゴ・チャージャーズが本拠地として使用していたが、エクスパンションによって念願のMLB球団の誕生が決定し、チャージャーズと兼用で本拠地とすることになった。チーム名はカリフォルニアで初めての伝道所を建設したフニペロ・セラ神父に因んでいる。スミスと元ドジャースGMのバジー・バヴェイジが共同オーナーとなり、監督も元ドジャースのコーチだったプレストン・ゴメス、元ドジャースの強打者だったデューク・スナイダーが実況中継を担当した。しかし初年度は52勝110敗と惨敗。その後この年を含めて100敗以上を4度、1974年まで6年連続地区最下位と低迷し、初めて勝率5割に達したのは1978年であった。
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サンディエゴ・パドレス
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「グレッグ・マダックス」の記事における「サンディエゴ・パドレス」の解説
2006年12月13日にサンディエゴ・パドレスと1000万ドル(2008年はマダックス、球団双方にオプション)の1年契約を結んだ。 2007年8月24日のフィリーズ戦で10勝目を挙げ、史上初の20年連続2ケタ勝利を達成。7月28日から9月19日にかけて59.2イニング連続無四球を記録。これは2001年の72.1回に次いで自身2位、球団史上ランディ・ジョーンズの68イニング(1976年)に次いで歴代2位の記録だった。オフにジム・カートとブルックス・ロビンソンを上回る史上最多17回目のゴールドグラブ賞を受賞し、11月19日に球団が1,000万ドルのオプションを行使し、残留が決まった。本人によると残留以外の選択肢は引退で、同年は楽しく過ごせ、引退する気になれなかったという。2008年5月10日のコロラド・ロッキーズ戦で史上9人目の通算350勝を達成。
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