ロビンソン【Jack Roosevelt Robinson】
ジャッキー・ロビンソン
ジャッキー・ロビンソン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 23:20 UTC 版)
「1946年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ジャッキー・ロビンソン」の解説
前年8月にブランチ・リッキーに認められてドジャースと契約したジャッキー・ロビンソンは、まずAAA級インターナショナル・リーグのモントリオール・ロイヤルズでプレーした。この年4月18日の対ジャージーシティー・ジャイアンツ戦が最初の出場でここからロビンソンの黒人としてのメジャーリーグへの挑戦が始まった。ロビンソンはベルリン五輪の陸上短距離の100m競走で銀メダルを獲得した実兄マック・ロビンソン(この五輪100m競走の金メダルはあのジェシー・オーエンス)に憧れて若い頃からスポーツ活動に力を注ぎ、バスケットボール・アメリカンフットボール・野球に特に熱心であった。一時ボクシングもやっていた。ロビンソンの特徴はその並外れた脚力であった。ベースランニングの速さ、スタートダッシュの凄さ、二塁手としてその守備ではいち早くボールの行方に回り込む速さがあり、その基礎は小さい頃からの陸上競技やバスケットやフットボールそしてボクシングで鍛えられたものであった。バントヒットで出塁し、すぐに二塁へ盗塁し、次打者が三塁ゴロで一塁に送球している間に二塁から三塁に走り猛然とスライディングする。やがてメジャーでのロビンソンのトレードマークとなる走塁の巧みさでこのマイナーリーグで相手チームを驚かせた(当前自軍のナインも驚いた)。このロイヤルズで124試合出場して打率.349を打ち、インターナショナル・リーグの首位打者となった。そして翌1947年、リッキーはロビンソンをメジャーデビューさせた。それはセンセーショナルなことであり、話題となり、球界を沸騰させることでもあった。そして野球の歴史を変えた。
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ジャッキー・ロビンソン
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「1947年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ジャッキー・ロビンソン」の解説
1901年以降初の黒人選手(アフリカ系アメリカ人)であるジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグにデビューした。そのことが発表されるや球界はたちまち騒然となった。コミッショナーのチャンドラーは後年にこの当時を回想して「ドジャースが黒人選手を採用すると言い出した時に。16球団のオーナー会議では賛成1、反対15でドジャース以外の球団は全て反対であった。」として「私はロビンソンにプレーさせると決断した。これが私の失職につながり兼ねないことだったが今日までこの決断に後悔したことはない。」と述べている。彼はこの4年後に任期1年を残してコミッショナーを去った。 1947年4月15日、ドジャースの本拠地エベッツ・フィールドで行われた対ボストン・ブレーブス戦でロビンソンはデビューした。この試合には2万6623人の観衆が見守り、そのうちの1万4000人以上は黒人であった。 フィラデルフィアをはじめ幾つかの都市ではドジャースの宿舎に脅迫が舞い込み、ナショナルリーグの選手がストライキを起こすなどの噂が広がり、セントルイス・カージナルスの一部の選手がドジャースの本拠地エベッツフィールドでの試合をボイコットするという情報が伝わるとカージナルスのブリードン会長がナショナルリーグ会長のフリック・フォードにストライキの首謀者を説得した旨の報告が出されて、フォード会長はストライキを起こせば無期限の出場停止処分を科すと言明した。フィラデルフィア・フィリーズのベン・チャップマン監督は試合中にロビンソンに汚いヤジを浴びせたことでフリック会長から譴責処分を受けた。このリーグ会長とコミッショナーの強い姿勢、そしてドジャースの代理監督がロビンソンを擁護して次第にチーム内でかれの存在を認めるようになった。しかし問題はグラウンド内のことだけでなく、グラウンドの外でチームの移動中に食事をとるためにレストランに入ってもロビンソンを断る所があり、白人選手がレストランの中でステーキを食べている最中でも、ロビンソンはバスに乗ったまま、ただ皆が戻ってくるまで待つだけであった。ドジャースにテスト生としてチームに帯同してロビンソンと一緒にいたもう1人の黒人選手が「こんなことなら、いっそニグロリーグに帰ろう。」と言うと、ロビンソンは「それでは放棄試合で、われわれは9対0で負けになる。」と答えたという。ブランチ・リッキーGMはロビンソンのこの忍耐強さを買っていた。初めて契約する黒人選手は力量以上に強靭な精神力を求めたのだった。彼は決して自暴自棄にならず反抗的にならず、ひたすら耐えてプレーに打ち込んだ。如何なるヤジや嫌がらせを受けても反撃してはいけない、とリッキーに言われて「そんな弱虫がお望みですか。」と反発すると、「反撃しない勇気を持つ者が欲しいのだ。」とリッキーは答えた。 ドジャースのチームメイトの中にはロビンソンを排斥する動きが一部にあったが代理監督のフィリーズ監督への猛抗議から、チーム内の雰囲気は変わっていった。そしてシーズン半ば頃にはメジャーリーガーとして実績を上げてその実力を示し始めると、スポーティング・ニュース社はこの年から制定される予定の最優秀新人賞(新人王)の候補者にロビンソンをあげ、クリーブランド・インディアンスのオーナーであるビル・ベック(ビル・ヴィーク)はアメリカンリーグの黒人選手第1号としてラリー・ドビーと契約し、ラリー・ドビーは7月5日の対ホワイトソックス戦でデビューした。そしてその2週間後には同じアメリカンリーグのセントルイス・ブラウンズが2名の黒人選手の採用を決め、8月にはドジャースはダン・バンクヘッドと契約した。彼は黒人投手としては初めて採用された選手である。 シーズンが終わった時、ロビンソンは151試合に出場して打率.297・打点48・本塁打12本・安打175本・盗塁29の素晴らしい成績で盗塁王を獲得し、この年から制定された新人王にシーズン終了前に選ばれた。今ではこの賞はジャッキー・ロビンソン賞の別名が付けられて、彼の背番号42は半世紀後に全球団永久欠番となった。
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ジャッキー・ロビンソン
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「1956年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ジャッキー・ロビンソン」の解説
ワールドシリーズ連覇を逃したドジャースは、年末の12月13日に投手陣の弱体化を補強するためジャイアンツのリトルフィールド投手の獲得を目指し、リトルフィールド投手とプラスして3万5,000ドルを受け取る代わりにジャッキー・ロビンソンをジャイアンツにトレードする話をまとめた。球団からトレード通告を受けたら5日以内に相手球団に行かねばならない。しかしロビンソンは別の選択肢を選んだ。「私の足は衰えた。これでは高い金額を用意してくれたジャイアンツに悪い」として翌年1月5日に自ら引退を発表した。1947年にロビンソンがドジャースの一員としてメジャーリーグにデビューした時は全米に衝撃が走った。差別に負けず打率.297・打点48・本塁打12本の成績でその年に制定されたばかりの新人王に選ばれ、盗塁29はリーグ最多で盗塁王をも獲得した。翌年には他の球団も相次いで黒人選手の採用に踏み切り、黒人がプレーすることは既に当たり前のようになった。1949年には打率.342・打点124・本塁打16本で首位打者となり盗塁王(盗塁37)も獲得してリーグMVPにも選ばれた。彼をメジャーリーグに入れたブランチ・リッキーGMは「他の誰にも彼と同じ境遇をしのぐことが出来たとは思えない。ロビンソンには自らを律する知恵と何よりの精神力があった」と回想している。 実働10年で1382試合・安打1,518本・本塁打137本・打点734・打率.311の通算成績を残し、首位打者1回・盗塁王2回でリーグMVPも1回獲得している。人種の壁を打ち破ったメジャーリーグ初の黒人選手でありパイオニアであったロビンソンの背番号「42」は彼の引退の40年後に全球団で永久欠番となった。
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