ジョージ・ゴアとは? わかりやすく解説

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ジョージ・ゴア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/02 22:00 UTC 版)

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ジョージ・ゴア
George Gore
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国
メーン州サッカラッパ
生年月日 1857年5月3日
没年月日 (1933-09-16) 1933年9月16日(76歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
初出場 1879年5月1日
最終出場 1892年8月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ジョージ・F・ゴア(George F. Gore、1857年5月3日 - 1933年9月16日)は、アメリカ合衆国メーン州サッカラッパ出身のプロ野球選手外野手)。右投げ左打ち。

ニックネームは"Piano Legs"ピアノ・レッグス)。主にキャップ・アンソンが指揮したシカゴ・ホワイトストッキングス(現カブス)で活躍、1880年のナショナルリーグ首位打者。

経歴

1879年にシカゴ・ホワイトストッキングス(現カブス)に入団し主に中堅手をつとめた。2年目の1880年に77試合に出場し打率.360を記録、この年のナショナルリーグ首位打者となった。また同年は出塁率・長打率ともリーグ1位となる強打を見せた。

1881年と1882年には足の速さを発揮しリーグ最多得点者となった。1886年にはリーグ2位ながら150得点を記録している。しかし1886年シーズンを最後に、ゴアはシカゴを離れ、ニューヨーク・ジャイアンツに金銭で移籍することになる。常々酒癖の悪かったゴアとアンソンの折り合いが悪かったためと言われている。ゴアは1890年のプレイヤーズ・リーグ参加を挟んで、ジャイアンツには1892年まで在籍し、1889年から1891年までの3年続けて100得点を記録する活躍を見せたが、1892年にセントルイス・ブラウンズ(現カージナルス)で短期間選手兼任監督をした後、メジャーリーグから引退した。この頃には妻との関係もうまくいっておらず、野球選手引退後の1894年には裁判所を通じて妻から離婚を言い渡されている。実働14年で100得点以上を挙げたシーズンが半分の7シーズンに及び、ゴアはメジャーリーグでも数少ない、『通算得点数が通算試合数を上回った選手』の一人となった。1933年にニューヨークで死去。

詳細情報

打撃成績

※数字の後の"*"は、記録不明箇所があることを示す。

試合 打数 安打 二塁打 三塁打 本塁打 得点 打点 盗塁 三振 四球 死球 犠打 打率 出塁率 長打率
1310 5357 1612 262 94 46 1327 618 170* 332 717 30* - .301 .386 .411

タイトル

  • 首位打者:1回(1880年)

監督としての戦績

※順位は年度最終順位

年度 チーム リーグ 試合 勝利 敗戦 勝率 順位 備考
1892年 STL NL 16 6 9 .400 11位 8月1日~8月18日
通算 16 6 9 .400

関連項目

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