ミラー・ハギンス
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ミラー・ハギンス(Miller James Huggins、1878年3月27日 - 1929年9月25日)は、アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ出身のプロ野球選手(二塁手)。右投げ、スイッチヒッター。
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- 1 ミラー・ハギンスとは
- 2 ミラー・ハギンスの概要
- 3 関連項目
ミラー・ハギンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 23:13 UTC 版)
「1929年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ミラー・ハギンス」の解説
1920年代に6回リーグ優勝し、3回のシリーズ制覇を成し遂げたミラー・ハギンス監督は、この年も指揮を取ったが、目の下のできものから丹毒とされて、9月19日に監督の交代があり、その6日後9月25日に急死した。 1904年にシンシナティ・レッズに上がり1910年からカージナルスに移り、1913年から1916年まで選手兼任監督で1917年にカージナルス監督になったが翌1918年にニューヨーク・ヤンキースに招かれた。これは次の監督を探していたオーナーのルパートがアメリカンリーグ会長のバン・ジョンソンに相談し、会長の薦めで抜擢したものだった。ジョンソンはその時にカージナルス監督としての実績とホーンスビーを育てた彼の手腕を高く評価していた。ジャイアンツ監督のマグローのカリスマ性は無くてもシンシナティ大学法学部を卒業したその知性を武器に抜け目のない采配と選手起用の巧みさで、ヤンキース監督に就任して2年目に3位に躍進してから「ヤンキース王朝」とも「ヤンキース帝国」とも呼ばれた輝かしい歴史が始まった。1925年にベーブ・ルースが規則を破って3日間宿舎に戻らなかった時に、ルースに罰金5000ドルと無期限出場停止を監督自ら申し渡したりして厳格な姿勢で選手たちを統率する一方でグラウンドでは黒子役に徹し、「小さな大監督」と呼ばれてベーブ・ルースや他の選手をうまく使いこなした、その監督としての手腕は高く評価されて、後に1964年に殿堂入りを果たし、そして球界屈指の名門球団の礎を築いた功績を讃えて、ヤンキースタジアムの外野スタンドにあるモニュメントパークの中心にミラー・ハギンスの記念碑が今も飾られている。
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