選手兼任監督
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選手兼任監督(せんしゅけんにんかんとく)は、スポーツのチーム競技において、監督業をこなす兼業選手のことを言う。
注記
- ^ ブレイザーも専任ではあるが、1979年から1980年途中まで阪神の、1981年から2年間南海の監督を務めている。
- ^ 機運がなかった訳ではなく、2001年オフに西武ライオンズが伊東勤に就任要請をしたものの固辞されている(後に一軍総合コーチ兼選手に就任)。
- ^ 例えば選手として退場処分を受けた場合、以後監督としての指揮も執れなくなる。
- ^ 社団法人格のみ引き続き残留可能。
- ^ なお、垣野はその後監督専任として現場復帰している
- ^ 2017年シーズンに藤枝MYFCGKコーチのシジマール、レノファ山口FCGKコーチの平井直人が、一時的にコーチ登録を解除の上で選手登録を行っている[7][8]。
- ^ Jリーグ発足後の実例はないが、現役選手(S級ライセンスを所持している人を含む)が事実上監督を兼任する場合は、S級ライセンスを所持していないコーチが「総監督」などの肩書で実質的な監督として指揮を執った例(ヴェルディ川崎での李国秀など)と同様、別にライセンスを所持するコーチを登録上の監督とすることが想定される。
- ^ なお、岡村はその後ヘッドコーチを退き、翌シーズンは選手に専念。そのシーズン後に引退した。しかし、大塚商会で専任コーチの後現役復帰。
- ^ シーズン終了後ジョンソンは退団し、ベンワーは選手復帰した。
- ^ これ自体先代春日野の栃木山守也が栃錦の現役中に没したことなどに配慮した特例措置で、明文化された規則としては、この前年から二枚鑑札は廃止されていた。
- ^ 但し、2005年から実施されているUCIプロツアー制度が導入されて以降、欧米籍の自転車チームについては、コーチと選手の分業化が進んでおり、またコーチングスタッフも、チームディレクター(チーム監督)、レースディレクター(助監督)といった分業体制を取っているところが多い。もっとも、日本の自転車チームは現在も選手兼任監督というケースが少なくない。
出典
- ^ “中日新聞:谷繁選手兼任監督、落合GM、森ヘッド:特集(CHUNICHI Web)”. 中日新聞 (2013年10月9日). 2013年10月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月8日閲覧。
- ^ 公認野球規則 8.06
- ^ “長崎S後期新体制の変更について | 四国アイランドリーグplus” (2008年7月5日). 2016年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月8日閲覧。
- ^ “香川OG 野手コーチ就任のお知らせ | 四国アイランドリーグplus” (2012年1月16日). 2016年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月8日閲覧。
- ^ “2021年四国アイランドリーグplus 公式戦ルール概要” (PDF). 四国アイランドリーグplus (2021年3月21日). 2023年11月22日閲覧。
- ^ Jリーグ規約(平成29年1月25日改正), p109 (PDF)
- ^ 『登録選手追加・変更・抹消のお知らせ(2017/09/01)』(プレスリリース)日本プロサッカーリーグ、2017年9月1日 。2017年9月26日閲覧。
- ^ 『登録役員追加・変更・抹消のお知らせ(2017/09/01)』(プレスリリース)日本プロサッカーリーグ、2017年9月1日 。2017年9月26日閲覧。
- ^ “沖縄SV立ち上げの高原は「代表兼監督兼選手」…県3部スタートも将来的なJリーグ入り視野”. ゲキサカ. 2023年3月8日閲覧。
- ^ “Bリーグ初!B2広島の朝山正悟が選手兼監督に就任”. 日刊スポーツ. (2017年11月30日)
- ^ “7勝27敗のバンビシャス奈良、パブリセビッチHCとの契約解除を発表”. バスケットボールキング. (2018年2月9日) 2018年7月29日閲覧。
選手兼任監督
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飯田の辞任にともない、南海は後任監督の選定を余儀なくされることになった。候補には当初西沢道夫・青田昇ら外部の大物の名前があがっていたが、川勝傳オーナーは、最下位に終わった球団を再建できるのは野村しかいないと熱心に口説いた。野村は当初、捕手、4番と監督兼任では荷が重すぎると就任に難色を示したが、球団が全面的にバックアップすることを条件に受諾し、1969年11月5日、34歳の若さで選手兼任監督に就任した。鶴岡が1960年代前半の時点で「自分の後任は、第一候補は蔭山、第二候補が野村」という構想を周囲に示していたように、野村の監督就任は以前から予期されていたことではあったが、前シーズンこそ酷い怪我に苦しんだとはいえ、まだまだ選手としての実力は衰えていなかったこの時点での監督就任は時期尚早の感があり、永井良和は「鶴岡は自らの後任として飯田、そしていずれは野村という構想をもっていたが、その時期が早まった」と述べている。 野村はヘッドコーチにドン・ブレイザーを据え、投手コーチに日通名古屋の監督であった古谷法夫、打撃コーチには日刊スポーツ、TBS専属の野球評論家の沼澤康一郎を招聘した。野村は以前からブレイザーの野球への知識に感銘を受け、共感できる部分が多いと考えており、「ブレイザーがヘッドじゃなきゃ監督は引き受けなかった」と語っている。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「4番打者」「捕手」「監督」の3つの重責をひとりで担うことになった野村は、後年このときの年俸は選手、監督分を合わせて1億円を超えていたと明かしている(当時の南海は給料を税金分天引きした手取りで渡していたため、1億円を超えていなかったが税金分を含めた給料は1億円を超えている)。 監督就任1年目の1970年は、新人・佐藤道郎を抑えでフル回転させ、何とか投手陣をやり繰りして2位となった。選手としては67年以来公式戦全試合出場を果たした。前年不振だった打撃も復調し、東映の大杉勝男と最後まで本塁打王を争った。ともに42本でそれぞれのシーズン最終戦を迎え、ここで大杉が2本塁打を放ち、44本として野村に2本差をつけた。これに対し野村は打席数を増やすためにそれまで全試合座っていた4番を捨てて1番打者として出場したが、本塁打を記録できず、大杉が初の本塁打王となった。 2年目の1971年は、勝率が5割を切って4位で終わる。ここで野村は他球団で燻っていた投手たちの獲得を目指すことにした。トレードで東映から江本孟紀を獲得した。 1972年、トレードで獲得した江本は前年0勝から飛躍して16勝を挙げてチームのエースに成長し、野村の手腕は高く評価された。一方、チームでは一部選手が野村の指導にはついていけないと首脳陣にこれまでの方針撤回を迫り、クーデターが起こった。それに対して野村は代表して意見を具申してきた三浦清弘に対して、強制的に任意引退の手続きを取るという強硬な手段に打って出た。最終的に三浦は、同じ大分出身の稲尾和久が監督を務める太平洋クラブ・ライオンズへトレードで移籍した。 1973年、パ・リーグは前後期制とプレーオフ制度を導入した。南海は前季にロッテ・オリオンズと優勝争いを繰り広げ、ロッテを制し前期優勝を達成した。しかし後期は、前年まで2年連続優勝していた阪急ブレーブスに対し全敗となる13連敗を記録した。プレーオフでは実力は南海より上と見られていた阪急を3勝2敗で下し、1966年以来7年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、日本シリーズでは巨人に1勝4敗で敗れ、V9を許す結果となった。監督兼任でありながら選手としても.309、28本塁打、96打点の成績を残し、1966年以来5度目となるパ・リーグMVPに選出された。 1975年オフには、巨人から水面下で選手兼任ヘッドコーチとして移籍を打診されるが、実現しなかった。この年巨人は球団史上初の最下位に終わり、巨人の球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五(いずれも当時の肩書)が戦力補強とコーチ陣のてこ入れのため野村と極秘に接触して交渉した。当時、チーム内の派閥抗争に巻き込まれ孤立していた野村は快諾したが、監督の長嶋茂雄が同意しなかったため、“巨人・野村克也”は幻に終わった。 1976年は、1月に阪神タイガースとの間でトレードの交渉をまとめ、その結果、江本孟紀、島野育夫、池内豊、長谷川勉ら主力の4選手を放出し、阪神のエースだった江夏豊と望月充の2選手を獲得した。だが江夏は移籍1年目に思うような成績が挙げられなかったことから、江夏をリリーフ専任投手として再生することを決断。江夏はリリーフへの転向を拒んでいたが、野村は「プロ野球に革命を起こそう」と口説き、江夏はその言葉に心を動かされて、1977年6月からリリーフに転向することに同意した。この年19セーブを挙げて最優秀救援投手に輝いた。江夏は「『革命』と言われなかったらリリーフ転向はOKしなかったと思う」と語っている。投手分業制を提唱し実践していた近藤貞雄の存在や、江夏のこの活躍などがあってリリーフの役割の重要性を球界に認識させ、先発、中継ぎ、抑えというピッチャーの分業を本格的に定着させるきっかけとなった。 1977年9月28日、シーズン終了まで2試合を残して監督を解任された。当時はまだ愛人関係にあった沙知代(当時は伊東芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由である。同僚投手の江本孟紀(のち参院議員)によれば、沙知代は大阪球場に電話をかけてきて「なんであんな選手を使ってるの!」「コーチを出しなさい」などと怒鳴り、選手起用が悪いからバッティング・コーチを電話口に呼び出せと言ったという。選手たちも「えらいこと言うオバハンやな」「公私混同でひっかきまわないでくれや」とうんざりしていたという。1975年オフ、選手会は緊急の会合をもち、「野村監督に忠告しよう」と決議したもののベテランは尻込みし、中堅選手も次々に腰が引けたため、結局最後まで残った江本、西岡三四郎、藤原満の3人が大阪のホテルで野村に直談判した。3人は「監督、プレーイングマネージャーなんですから、公私の区別をきっちりつけて選手が納得できるよう収めてください。」と話し、野村は神妙な面持ちで聞き「やっぱり話の分かる人だな。」と江本らは安心して引きあげた。しかし、江本、西岡は同年オフにトレードで移籍した。 野村は球団から監督を解任を通告された後、マスコミの前から姿を消していたが、10月5日に大阪ロイヤルホテルにて記者会見を開いた。会見の冒頭で「私は鶴岡元老にぶっ飛ばされた。スポーツの世界に政治があるとは思わなかった」と切り出し、自分が解任されたのは球団OBの鶴岡一人による介入だと主張した。また「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」についても、沙知代はコーチ会議に出した覚えもないし、それほど常識のない女とも思っていないと発言し、球団が自身を解任した理由には正当性がないと主張した。鶴岡は、野村の主張は事実無根であると南海に対し抗議し、南海も野村に対し発言を撤回するよう訓告文を送付した。野村と南海は大きく対立したが、野村は14日、球団に対し「表現に行き過ぎがあった」と認め、南海も野村の謝罪を「誠意あるもの」であると受け入れ、騒動は一応の決着がついた。 1977年11月、監督の金田正一から誘いを受け、ロッテへの移籍が決定した。南海の選手のうち、野村の解任に反対していた柏原純一と江夏豊がトレードを主張した。南海は他球団と交渉し、江夏は広島への金銭トレード、柏原は日本ハムとのトレードが成立した。江夏は広島への移籍に同意したが、柏原は野村が移籍したロッテへのトレードを訴え、受け入れられない場合は任意引退も辞さないと強硬に主張した。しかし、柏原は翌1978年1月に日本ハムへの移籍を受け入れた。 南海は野村、柏原、江夏ら主力選手の流出によって戦力が大幅に低下し、翌年以降はBクラスに低迷し1988年限りでダイエーに身売りした。
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選手兼任監督
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1949年末から1950年始にかけて、球界は2リーグ分立し、主力選手の引き抜きに揺れた。タイガースも若林忠志、別当薫、土井垣武等をはじめとする主力選手が次々と毎日オリオンズに引き抜かれたが、「わしゃタイガースの藤村じゃ」の言葉とともに、藤村はタイガースに残留して弱体化したチームを支えた。1950年、セントラルリーグ初年度の公式戦ポスターは藤村の顔が描かれている。この前年に藤村の三冠王を阻んだ小鶴が本塁打、打点の二冠を手にすると、藤村はセ・リーグ最初の首位打者を獲得し、小鶴の三冠王を阻んだ。この年に記録した年間191安打は1994年にイチローに破られるまで44年間日本プロ野球記録であり、2010年にマット・マートンに破られるまで60年間阪神の球団記録であった。また、この年は前年の142打点を上回る自身最高となる146打点を記録したが、既述の通り小鶴がそれを上回る日本記録となる161打点を記録したため、打点王を逃した。146打点は打点王を逃した記録としては、2017年現在に至るまで最多記録である。 1953年には、4月28日、29日と日本プロ野球史上初の2試合連続満塁本塁打を放ち(2022年時点においても日本プロ野球史上最多タイ記録[他に8名])、再び、本塁打、打点の二冠王となるなど、常にタイトル争いに加わり、1955年まで一線でプレーした。1951年までは投手としても登板し、通算76試合で34勝11敗、防御率2.34 の記録を残している。与儀眞助が加入した1953年からは一塁手がメインとなる。一塁への転向を知ったライバルの川上哲治は、アメリカで購入したファーストミットを藤村に贈ったという。この間、1950年からは打撃コーチ兼任となり、1954年からは助監督を兼務した。 しかし、1955年に監督就任した岸一郎は世代交代を目指して、藤村等ベテラン選手より若手選手優先の起用を行った。そのため主力選手の反発を招き、岸がシーズン中に更迭されると藤村が代理監督に就任、翌年からは正式な兼任監督となった。1956年には監督としての仕事を優先してレギュラーを譲ると、日本球界2人目の代打逆転サヨナラ満塁本塁打の快挙を達成した。この本塁打が藤村の現役最後の本塁打であった。 兼任監督時代は打てる投手の時に出場し、逆に打てない投手の時に出ないというケースがあり、それまでも数々のスタンドプレーを快く思わない選手もいて、打撃練習もファンを意識してわざと遅れてやる、一人長々やる などの蓄積がナイン全体の反感を買った。また、人の好い藤村は球団の提示する低い年俸を受け入れ、球団はこれを尺度に他の選手の査定をおこなったため、待遇に対する不満が選手の間に生じていた。こうした状況を背景に「藤村排斥事件」と呼ばれる騒動がマスコミを巻き込む形で起きる(詳細は同項目を参照)。2リーグ分裂以降の阪神は、内紛騒動があまり表に出なかったが、この事件以降、阪神が一種のスキャンダル・メーカーになっていく。スポーツ新聞もこれを助長し、裏話を求める読者へ、スキャンダル報道で答えようとした。藤村排斥事件の報道は、その先駆例だった。スポーツ新聞が急成長するきっかけをつかんだのもこの内紛劇からとされる。 この事件の影響で1956年限りで現役を引退し、1957年から監督に専任することとなった。上記の排斥運動などのイメージで監督としては無能だった、という評価が定着しているが、監督4シーズンで勝率.583という成績を残している。特に1957年は、夏場の流感による選手の離脱というハンディの中で首位巨人と1.0ゲーム差だった。1956年の代理監督就任直後には20試合で15勝5敗という成績を収めており、『阪神タイガース 昭和のあゆみ』はこれに関して「勝負カンという点では人一倍すぐれたものを持っていた」と記している。 1957年11月、優勝争いをした後にもかかわらず、球団代表の戸沢一隆から「田中義雄への監督交代と、代打要員としての現役選手への復帰」を告げられる。まだ契約期間中だったため、藤村は契約満了の11月末までは発表を控えることと、現役復帰はキャンプで体調を見てから決めたいという要望を出したが、戸沢がそれを突っぱねて「(代打要員で)世間体が悪ければ肩書きを付けよう」と発言した。これについて藤村は「頭に来た」とのちに述べている。結局、藤村の意向は無視される形で発表された。この不可解ともいえる監督交代について、南萬満は「前年の排斥事件のペナルティではないか」という見解を示している。 1958年に現役復帰したが、先発は1試合のみ、7番・ファーストで途中交代。結局26打数3安打、シングルヒットが3本の打率1割1分5厘で、生涯打率3割を保つため11月末に引退を表明し、ついにタイガースから完全に離れた。1950年の毎日への主力選手移籍の折に「出てったもんと、残ったもんと、どっちが勝つかはっきりさせようじゃないか」と語り、日本シリーズに出場することが悲願であったが、その夢は果たされることなくユニホームを脱いだ。日本シリーズに出られなかったことは後年まで悔いとして残り、1984年のインタビューではリーグ分裂の際に毎日に行った仲間がその年の日本シリーズに出たことをうらやむ気持ちが強かった、長い野球生活でこれだけ経験できなかったことが情けなかったと述べている。 引退の記者会見は甲子園球場の食堂で行われ、かつてのスター選手としては寂しい舞台であった。しかし翌1959年3月2日、甲子園球場で『藤村富美男引退試合』(オープン戦、対巨人)が開催された。これは日本球界で初の『引退試合』だった。大阪タイガース結成時から藤村がつけ続けた背番号「10」は、球団初の永久欠番となっている。
※この「選手兼任監督」の解説は、「藤村富美男」の解説の一部です。
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「選手兼任監督」の例文・使い方・用例・文例
- 古田選手がスワローズの選手兼任監督に
- 古田選手は来季も引き続き捕手を務め,29年ぶりの選手兼任監督となる。
- 以前の選手兼任監督は野村克(かつ)也(や)氏だった。
- 明治安田生命保険によって行われた調査によると,理想の男性上司はヤクルトスワローズの古田敦(あつ)也(や)選手兼任監督だった。
- 東京ヤクルトスワローズの古田敦(あつ)也(や)選手兼任監督は2年連続で理想の男性上司に選ばれた。
- 9月19日,ヤクルトスワローズの古田敦(あつ)也(や)選手兼任監督(42)が引退を発表した。
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