選手兼任監督就任
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1957年10月23日の対読売ジャイアンツ戦(後楽園球場)ではプロ入りから僅か8年目で通算200勝を達成、敗戦投手は後にプロレスラーへ転向する馬場正平だった。 プロ10年目が終わった1958年に球団事務所を訪問すると、球団から「思い切ったことを考えているから、後日また来るように」と言われる。3日後、杉下が再度訪問すると「西沢(当時37歳)と服部(当時38歳)には辞めてもらう。30歳以上の選手は不要」と伝えられた。杉下自身も翌年には34歳になるものの、杉下には残留が要請された。しかし、その要請も投手としての登板を考慮されないものであり、別の日に訪問すると監督就任を要請された。杉下は前年にも11勝を挙げているために本人は寝耳に水だったが、監督就任を受諾する条件として服部と西沢の背番号(10・15)を永久欠番とし、引退試合を行うことを要請した。この条件は了承され、杉下は自身の背番号20も欠番にするかと問われても、「まだチームにいます」として拒否した。中日ドラゴンズ時代に挙げた通算211勝は、2012年に山本昌に抜かれるまで球団記録だった。 1959年から1960年まで中日ドラゴンズの選手兼任監督に就任したが、監督業に専念したために公式戦の出場は一切無かった。監督1年目は伊奈努(当時24歳)、児玉泰・大矢根博臣(共に当時25歳)ら若手投手が揃い、野手も捕手で入団した新人の江藤慎一を一塁で起用、入団2年目の前田益穂を三塁や遊撃に抜擢した。一気に若返ったチームは、64勝61敗5分で阪神と同率2位になったが、監督2年目の1960年は投手陣が崩れ、63勝67敗の5位に終わった。 1961年には毎日大映オリオンズへ投手コーチとして訪問したが、永田雅一からの一言で現役復帰を果たし、同年限りで引退した。この年は僅か4勝しか挙げられなかったため、生涯シーズン平均20勝を越えることが出来なかった。
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