選手兼任監督就任とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 選手兼任監督就任の意味・解説 

選手兼任監督就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:20 UTC 版)

杉下茂」の記事における「選手兼任監督就任」の解説

1957年10月23日の対読売ジャイアンツ戦(後楽園球場)ではプロ入りから僅か8年目通算200勝を達成敗戦投手は後にプロレスラー転向する馬場正平だった。 プロ10年目終わった1958年球団事務所訪問すると、球団から「思い切ったことを考えているから後日また来るように」と言われる3日後、杉下再度訪問すると「西沢当時37歳)と服部当時38歳)には辞めてもらう。30歳上の選手不要」と伝えられた。杉下自身翌年には34歳になるものの、杉下には残留要請された。しかし、その要請投手としての登板考慮されないものであり、別の日に訪問する監督就任要請された。杉下前年にも11勝を挙げているために本人寝耳に水だったが、監督就任受諾する条件として服部西沢背番号10・15)を永久欠番とし、引退試合を行うことを要請した。この条件了承され、杉下自身背番号20欠番にするかと問われても、「まだチームにいます」として拒否した中日ドラゴンズ時代挙げた通算211勝は、2012年山本昌抜かれるまで球団記録だった。 1959年から1960年まで中日ドラゴンズ選手兼任監督就任したが、監督業専念したために公式戦出場一切無かった監督1年目伊奈努当時24歳)、児玉泰大矢根博臣(共に当時25歳)ら若手投手揃い野手捕手入団した新人江藤慎一一塁起用入団2年目前田益穂三塁遊撃抜擢した一気若返ったチームは、6461敗5分で阪神同率2位になったが、監督2年目1960年投手陣崩れ6367敗の5位に終わった1961年には毎日大映オリオンズ投手コーチとして訪問したが、永田雅一からの一言現役復帰果たし同年限り引退したこの年は僅か4勝しか挙げられなかったため、生涯シーズン平均20勝を越えることが出来なかった。

※この「選手兼任監督就任」の解説は、「杉下茂」の解説の一部です。
「選手兼任監督就任」を含む「杉下茂」の記事については、「杉下茂」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「選手兼任監督就任」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「選手兼任監督就任」の関連用語

選手兼任監督就任のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



選手兼任監督就任のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの杉下茂 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS