選手兼任指導者時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 01:43 UTC 版)
「ハワード・ケンドール」の記事における「選手兼任指導者時代」の解説
ストーク 1977年8月、移籍金4万ポンドでセカンドディヴィジョンのストーク・シティFCに移籍した。ジョージ・イーストハム監督の下でファーストディヴィジョン再昇格を目指したが、1977-78シーズン序盤戦につまづくと、1978年1月にイーストハム監督が解任されてアラン・ダーバン監督が就任した。ダーバン監督は就任してすぐにケンドールを選手兼任コーチに抜擢したが、ケンドールはふたつの役割をうまくこなし、クラブのプレーヤー・オブ・ザ・シーズンに選出された。ダーバン監督はケンドールを軸に据えてチームを立て直し、1978-79シーズンには3位となってファーストディヴィジョン昇格を決めた。 ブラックバーン ダーバン監督はケンドールのストーク残留を希望したが、ケンドールはサードディヴィジョン(3部)のブラックバーン・ローヴァーズFCで選手兼任監督になる道を選んだ。1979年6月にブラックバーンに移籍し、1979-80シーズン終了後にはセカンドディヴィジョン昇格を果たした。1980-81シーズンにも昇格争いに加わったが、得失点差でファーストディヴィジョン昇格を逃した。1981年5月、やはり選手兼任監督として古巣エヴァートンに復帰。選手として出場したのはリーグ戦4試合にとどまり、1981年9月に選手としての経歴を退いた。 ケンドールはイングランドA代表としてプレーしたことはないが、イングランドユース代表やU-23イングランド代表としての経験があり、1964年にはイングランドユース代表のキャプテンとしてリトル・ワールドカップで優勝した。
※この「選手兼任指導者時代」の解説は、「ハワード・ケンドール」の解説の一部です。
「選手兼任指導者時代」を含む「ハワード・ケンドール」の記事については、「ハワード・ケンドール」の概要を参照ください。
- 選手兼任指導者時代のページへのリンク