ID野球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/11 21:29 UTC 版)
ID野球(アイディーやきゅう)とは、野村克也がヤクルトスワローズの監督であった時に提唱した野球理論。
概要
IDとはImport dataの略である。しばしば誤って「IDとはimportant dataの略である」とされるが、野村本人が「正確にはimport dataであり、important dataではない」と断言している[1]。
監督のチーム作りや選手がプレイする際、経験や勘に頼ることなく、データを駆使して科学的に進めていくという手段である。その下地には、南海ホークス時代の同僚だったドン・ブレイザーの教え「シンキング・ベースボール」があった。
ヤクルトの捕手であった古田敦也は、頭脳を駆使した緻密な計算を基とする野球を野村から徹底的に叩き込まれており、「ID野球の申し子」と評されていた(古田敦也#トヨタ自動車時代も参照)。選手兼任監督就任後もデータを駆使した采配を振ることもあった。
野村がID野球の提唱して長年経過したプロ野球界隈においても、当該理論は用いられている。例を挙げると、吉田裕太は野村監督の孫弟子としてID野球で正捕手を目指すとされていた[2]。また、原辰徳が読売ジャイアンツの監督として不調であったときには、ID野球に基づきチームを立て直しているなどとされていた[3]。
しかし、1995年から1997年に指導を受けた吉井理人は、「ID野球」という言葉が一人歩きして勘違いされていると2022年に述べている。吉井によると、野村は、配球パターンとして「ピッチャー優先」「データ優先」「シチュエーション優先」の3つがあり、その中で一番優先されるべきは「ピッチャー優先」だとしていたという。しかし野村の真の意図が理解されなくなった現在は、「ID野球」とは「キャッチャーがピッチャーにデータ通り投げさせること」という風潮になり始め、バッターを抑えるための「ID野球」なのに、逆にピッチャーを苦しめているケースが多く見られるとしている[4]。
なお、野村はヤクルト監督退任直後の1999年に阪神タイガースの監督に就任しているが、阪神では「ID野球」のコピーを使わず、「野村TOP野球」(Total・Object lesson・Process)をスローガンとした。
脚注
- ^ 野村克也『私の教え子ベストナイン』195頁
- ^ 塚沢健太郎 (2013年10月26日). “ノムさん“孫弟子”!ロッテD2吉田、ID野球で正捕手目指す”. サンケイスポーツ. 2013年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年11月13日閲覧。
- ^ 菅谷齊 (2011年11月7日). “巨人フロント奇策、原監督は真っ青? ついに天敵「野村ID野球」を取り入れた”. J-CASTニュース. 2019年11月13日閲覧。
- ^ “イメージは「面倒くさいおっさん」だけど…野村監督のID野球に多くの教え子が心酔したワケ 「選手をデータ通りに動かす」は誤解”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン). プレジデント社 (2022年1月22日). 2024年5月7日閲覧。
参考文献
関連項目
ID野球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:29 UTC 版)
「ID野球」も参照 1990年、データを取り入れるという意味の「ID野球」(Import data)を掲げてチームの改革を図る。主砲の池山隆寛や広沢克己らには、三振を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。結果として、広沢は後に打点王のタイトルを獲得し(1993年)、池山もその1990年にキャリアハイの打率.303、97打点(本塁打は31)を記録した。また、ドラフト2位で入団した古田敦也らをレギュラーに抜擢、前年まで正捕手だった秦真司を外野手に、控え捕手だった飯田哲也を二塁手にコンバートした。しかし1年目は改革が勝利には結びつかず、開幕からの巨人戦は大里晴信の疑惑の判定もあり、2試合連続のサヨナラ負け、3戦目に初勝利を挙げるものの、その後も連敗を重ね結局5位に終わり、前年の4位を下回った。9月8日の試合では巨人の優勝が決まり、目の前で胴上げを見ることになった。野村の要請でヘッド兼打撃コーチに就任した高畠は一年で辞任、「野村さんはすっかり変わってしまった。いろいろな事に疑心暗鬼になる人に変わってしまった。かつての野村さんはそんな人じゃなかった。相変わらず夫人の介入もありました」と述べている。 1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、巨人の極度の不振(1979年以来12年ぶりにBクラスに転落)などもあってAクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得。二塁手から中堅手へ再度コンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁を見せた。高津臣吾に「日本を代表する抑えになれ、潮崎哲也のシンカーを参考にしてシンカーを投げろ」と助言し、その成長を促した。 ID野球に倣い、IDバレー(眞鍋政義監督)やIDサッカー(野村雅之監督)など、他のスポーツでも「ID」を冠したキャッチコピーが使われるようになった。
※この「ID野球」の解説は、「野村克也」の解説の一部です。
「ID野球」を含む「野村克也」の記事については、「野村克也」の概要を参照ください。
- ID野球のページへのリンク